10年間かけてメジャーで「戦いぬく」肉体を作った
2011年にマスターズ初出場でローアマを獲得したときから、彼はアマチュアながらすでにそこに「出る」にはふさわしいものをすべて備えていた。しかし彼は「出る」のではなく「勝つ」ことを強く願望した。だから何が足りないのかをあのときに感じて、計画性を持って自己改革に取り組んできた。
心技体でいえば、まず11年当時は体の線が細かった。勝てる肉体を手に入れようと、トレーナーと二人三脚で努力を続けてきた。トレーナーは私の教え子だから、オフに学生たちの合宿へ毎年来てくれる。松山がシーズン中に連日こなしているトレーニングメニューを教えてもらうと、学生たちが嬉々としてやり始めた。ところが学生が吐くほどの過酷さだった。そんな鍛錬を松山は10年間も続けた末、11年とは比べものにならないあの強靱な肉体になっていった。
肉体強化は飛距離アップにつながっただけではない。ただ「戦う」肉体ではなく、メジャーで4日間「戦いぬく」肉体。私は86年のマスターズで優勝争いをしていながら、サンデーバックナインで、もう一歩前に進めなかった。攻めるのではなく耐えるのが精一杯だった。だが彼にはそこで攻められる馬力があった。
それは例えば陸上100メートル走なら、10.00 か9.99 かの自分の限界以上を追求するとてつもない挑戦。彼はその挑戦に勝ったのだと思う。
スウィングが簡素化され球が打ち分けやすくなった
次に技術面。スウィングで一点変わったことを挙げるなら、トップが少しレイドオフになった。2019年頃の写真を見るとクラブヘッドが飛球線方向を指していたが、今は若干外側を向いている。それによってダウンスウィングが変わった。インサイドからシャローなプレーンでクラブを下ろせて、無駄なところを通らないでシンプルに打てているし、インパクトも長くなった。スウィングが簡素化され、オーガスタ攻略には欠かせないドローとフェードの打ち分けを、これまで以上に簡単にできるようになっている。
アイアンの精度は見事の一言だが、以前はパットに不安があった。2年前のあるトーナメントで予選落ちしたとき、まるで地に足がついていないようなフラフラした印象を受けた。
ところが優勝したマスターズでは、下半身がどっしりして微動だにしない。それでいて上半身はリラックスして肩がしっかり動いていた。あの安定性と柔軟性は練習量のたまもの。
それと17年のブリヂストン招待でファイアストーンのコースレコード61で優勝したとき、幅広のマレット型にパターを替えていた。そのまま行くかと思いきや、元のピンタイプに戻した。そうした迷いは改善や改良を求めるからこそ。今はエースパターを信じ、基準点を大切にしている。そうした改良や改善も、優勝したマスターズ3日目のバーディラッシュなどで実を結んでいる。
「トップ中のトップになるためにつねに上を見つめて戦い続けてきた」
精神力については、マスターズにいるトップ選手には甲乙つけがたいものが誰しも備わっていると思う。松山にもこれまで世界で戦ってきたすべてが経験値となって積み重なっている。
16年のフェニックスオープンで優勝した際、失礼だとは思ったが飯田光輝トレーナーにメールを送った。「俺はまだ松山は一・五流だと思っている。一流だと思ったら成長は止まる。そう伝えてほしい」と。するとすぐに、「本人は一・五流どころか二流だと思っています」という返事が来た。さすが松山だなと思った。
今の時代、メジャーで勝てる日本人選手がいるとしたら、私は松山しかいないと思っていた。17年の全米プロでジャスティン・トーマスに敗れて彼は涙を流した。「ここまで来た選手はたくさんいます。でも、ここから先なんです」と彼は言った。私も86年の全英オープンでグレッグ・ノーマンとの最終日最終組、自分のミスで敗れたときに彼と同じように号泣した。そこから先、メジャーで勝つには、世界のトップ選手ではなく、トップ中のトップにならなければいけないということ。
そのトップ中のトップになるために、彼は自分に満足したり安心したりしてしまうことなく、常に上を見つめて戦い続けてきた。多くの試合で優勝争いした際の、成功だけではなく、不成功も含めたすべての経験が生きている。
2017年全米プロでの惜敗がマスターズ優勝への序章だった
首位と1打差の2位タイで最終日を迎えた松山は、最終組の1つ前でジャスティン・トーマスと同組に。最終組がスコアを落とすなか、2人はマッチプレーの様相に。6番、7番でバーディを取った松山が単独首位に立つこともあったが、11番からの3連続ボギーが響き、最終的にはトーマスと3打差の5位タイに終わった
2017年8月10~13日 全米プロゴルフ選手権 松山英樹 5位タイ -5(70・64・73・72)
中嶋常幸が語る“やりぬく力”
1986年マスターズ「8位になった。でも、勝てなかった」
86年のマスターズ。3日目まで試合の中心にいたのはノーマンであり、セベ・バレステロスであり、自分だった。サンデーバックナインに入り、ニクラス、ノーマンとは2打差がついていた。今考えてみても、問題はやはりこの“サンデーバックナイン”に尽きる。ひと言でいうなら“あと一歩前へ”という胆力がなかったんだと思う。
「大歓声を味方につけて無我の境地でプレーできる者だけがチャンピオンになれる」
メジャーの土壇場を戦っているときの心情は、ある種のゾーンの中にいるような状態。心穏やかでものすごく集中できているんだけれども、異様なアドレナリンが出る。それをどう抑えられるか。とてつもない状況でどうやったら抜け出せるかを知っている選手と、そうでない選手の違いが出る。自分はその、一歩前へやりぬく力が不足していた。成功だけでなく、夢舞台での不甲斐なさこそ自分を超える糧になる。松山は間違いなくやりぬいたんだと思う。