1930年、球聖ボビー・ジョーンズは年間グランドスラム(全英・全米両アマ、全英・全米両オープン)を達成すると、28歳の若さで競技ゴルフから身を引く。引退後、故郷のジョージア州アトランタに理想のコースを造るべく土地探しを始めた。しかし、故郷では自分が思うような土地が見つからず、見つけたのは州都アトランタから240キロ離れたオーガスタの果樹園だった。

コース設計家が見たオーガスタナショナルGCの貌

Augusta National Golf Club

 探し出した果樹園は「ゴルフコースが造られるのを待っていた理想の用地」と、ジョーンズと共同設計者のアリスター・マッケンジーは共鳴したという。その理由は3つ。

 1つはこの地をウィンターリゾートのコースにしたかったから。アトランタはオーガスタより北は気温がだいぶ低い。冬、プレーするには寒すぎると判断したのだ。

 2つ目。オーガスタの台地にはいくつもクリークが流れ、それは隣接するオーガスタCCを経由してサバンナ川へと流れ込む。この“水”があったことも選択肢のひとつだった。

 3つ目。この理由がいちばん大きいのだが、それは地形に高低差があるということだ。現在のコースから検証してみる。

 私(川田氏)がオーガスタを初めて訪れたのは1987年。それから競技委員として2度を含む数回、この地に足を踏み入れているが、最初の印象としては、「アップダウンがすごい」ということ。TV中継ではこの高低はわからない。敷地内では、現在のクラブハウスの位置が最高地点。そこから10番は31メートル打ち下ろしていく。その10番グリーンと同じ高さのティーイングエリアから20数メートル打ち下ろしていくのが11番で、12番ティーが最低地点。そこには約60メートルの高低差があるのだ。

開場当初は「プロもアマもみんなが愉しめるコース」だった

画像: Augusta National Golf Club 航空写真

Augusta National Golf Club 航空写真

理想の地を手に入れたジョーンズは早速、造成にとりかかるのだが、その前に共同設計者であるアリスター・マッケンジーとの関わり合いを説明しておこう。 

 1929年、ペブルビーチで行われた全米アマの折、1回戦で敗退したジョーンズは、隣接する新設のサイプレスポイントでプレーした。自然の景観を生かした設計の妙に感激。その設計者がマッケンジーだった。2人の合意は「内陸にセントアンドリュース・オールドコースのようなリンクスを造る」だった。つまり、可能な限り自然の地形を生かすということ。オールドコースが神の造りたもうたコースといわれるのは、人工の手が入っていないからだ。

 造成工事は1931年11月に始まり、翌年の5月に完成。こうしてジョーンズのプライベート倶楽部、オーガスタナショナルゴルフクラブは1932年に開場する。開場当時、ニューヨークタイムズは「ビギナー向けのコースだ」と酷評したが、ジョーンズは「その通り。プロもアマもみんなが愉しめるコース。今やゴルフは一部の裕福な人たちの娯楽ではない。アベレージゴルファーであってもコースで恥をかくような倶楽部ではいけない」と反論している。

 マスターズが始まったのは1934年。ジョーンズがトーナメントで知り合った名手たちを呼んで、親睦を図るという、いわば“プラコン”だった。名称も「ファースト・アニュアル・インビテーション」で、マスターズなどおこがましいといって、許さなかった。しかし、ジョーンズを慕うファン、メディアなどの要請によって、1939年よりその名を承認するに至った。

 ただその地位にとどまり、名門として生き続けるだけなら、そこそこのメンテナンスだけでもよかったろう。しかし、オーガスタナショナルGCのコミッティ(委員会)はこの道を選ばなかった。年1回開催する自分たちのトーナメントのために、あらゆる資金、技術、ノウハウを導入する。コースも年々、改造・改修し続けている。

監修/川田太三(コース設計家) 協力/武居振一(JGAゴルフミュージアム参与)

構成/古川正則 写真/宮本卓、ゴルフダイジェスト

第1回から第5回までは「マスターズ」ではなかった
1934年に行われた「ファースト・アニュアル・インビテーショントーナメント」の大会パンフレット。初日の22日午前中はアプローチとパッティングコンテスト、23日午前中にアイアンコンテスト、24日午前中にはドライビングコンテストが行われ、競技はいずれも午後からだった

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