2月のハワイアンオープンで青木功が日本男子初の米ツアー優勝を成し遂げた1983年。前年まで最終戦だった12月のゴルフ日本シリーズのあとに試合が組まれた。それが沖縄県で開催された後援競技の大京オープン。後援競技とはいえ賞金総額2500万円と当時としては高額で、賞金ランクの対象試合。前週の日本シリーズで、この年8勝を挙げた中嶋常幸の2年連続賞金王は決まっていたが、賞金ランク40位までのシード権争いは続いていた。
最終戦前に40位にいたのは秋富由利夫。3年前にはたった9万8000円差でシード権を逃し、この年もボーダーラインにいて、下位選手のターゲットとなっていた。だが約26万円差で41位の海老原清治は、差を詰めることもなく予選落ち。43位の船渡川育宏は決勝に進んだもの最後までもつれたシード権争いの3日目に4OBの85を叩いてしまう。42位の新関善美は15位タイで33万円上積みし、順位をひとつ上げたものの、あと一歩届かなかった。
シード入りには優勝しか残されていなかった横島由一は、最終日を首位タイで迎える。最終組で一緒になったのは同郷の千葉県野田市出身、家も2〜3分の距離で家族ぐるみの付き合いという草壁政治だった。草壁は前年にシード権を失っていたが、わずか1年で返り咲きを決めていた。お互いを知り尽くしたふたりの戦い。「やりづらい」と何度も口にする横島は、インに入ってリズムを崩し4位に沈む。優勝した草壁は「実に複雑な心境ですね。横島が頑張って勝つのが一番だったんだろうけど……。でも僕としても手を抜くなんてできないし、2人揃って沈むのだけは嫌だった」と試合後、淡々と語り、81年長野県オープン以来となるツアー8勝目に控えめな笑顔を浮かべた。
週刊ゴルフダイジェスト2023年1月3日号「ニッポンゴルフ初物語」より