史上もっとも小さな賞金王が誕生した。比嘉一貴27歳、身長158cm。2022年、シーズン4勝を挙げ2位の星野陸也に6700万円以上の差をつけ栄冠に輝いた。小さいことは「コンプレックスではない」と本人が言えば、父は「あいつのトレードマーク」と小さいことを前向きにとらえるメンタリティ。賞金王はどのようにして生まれたのか?
画像: 22年ツアー4勝を挙げ、賞金王に輝く。日本シリーズの表彰式で家族やスタッフらと撮影

22年ツアー4勝を挙げ、賞金王に輝く。日本シリーズの表彰式で家族やスタッフらと撮影

比嘉のゴルフ人生は沖縄の泡瀬ゴルフ場(米軍専用コースで現在は閉鎖)の2番ホールから始まった。四季が鮮明ではない故郷にようやく秋の気配が漂い始めた頃だった。

その日は学校が振替休日で当時所属していたハンドボール部の部活もお休み。小学3年生の比嘉は父・洋さんから「家にいるならついてこい」と誘われコースに出た。

1ホール目は父と友人のプレーを見学したが、欠員が出たため2番から打つことを許された。

「もちろんジュニア用のクラブなんて持っていません。父のドライバーを打ったら、空振りもせず、まあ、当たって……」

2打目以降もすべてティーアップして打ち、グリーンに近づくとパターを持った。ドライバーとパター2本だけで17ホールを完走。スコアの数え方もわからなかったが父によると100は切っていた。

「クラブを握って1打目を打った瞬間、プロゴルファーになりたいと思いました」

その晩両親の前で「プロゴルファーになります」と宣言した。

そこから父の練習についていっては、300球のうち半分は父が、半分を息子が打つようになった。やがて息子は父の腕前を超える。父はゴルフをやめ自分のボールをすべて息子に委ねた。

家の近くの練習場のアカデミーに入ったのだが当時はジュニア人気が高く、コーチに教わる順番はなかなか回ってこなかった。それでも500円で打ち放題なのは魅力だった。初めて出た大会のことは忘れられない。ビリに近い成績。ショックだった。

「トップの選手はアンダーで回っていました。張り出された成績表の前で1時間も2時間も動けず立ち尽くしていたのを覚えています」

画像: 小さいころから、1000球以上球を打ってきた比嘉。さすがの腕っぷしだ

小さいころから、1000球以上球を打ってきた比嘉。さすがの腕っぷしだ

それが奮起材料となった。「このペースじゃダメだ」。夏休みだったこともあり1日3000球の練習を自らに課した。

すると2週間後の大会で6位入賞。その頃からただ球数を打つだけでなく「今のはどうして真っすぐ飛んだんだろう?」「なぜ曲がったんだろう?」「なぜ飛距離が出たんだろう?」など、鏡の前で形をなぞり、その時々のスウィングの感触を確かめるようになった。

「自分なりに違和感を解決できると、『あぁ、これなんだ』と小さな発見がある。その瞬間がすごくうれしかった。どんどんゴルフの魅力にはまっていきました。わからないことは先生と話して一つ一つ解決していくのですが、その過程もすごく楽しかったです」

とにかく研究熱心な少年だった。

当時はインターネットがそれほど普及しておらず、タイガー・ウッズのスウィングの映像を携帯で見ることなどできなかった。

「それこそゴルフダイジェストに載っていた連続写真を参考にしました」

タイガー、P・ミケルソン、E・エルス、L・グーセン、ビジェイ・シンのビッグ5が好きだった。

「後方からはグーセン、正面はエルスが好きでした。スウィングの形の共通点を探して『タイガーはここで足を蹴っているんだ』、なんて鏡の前を行ったり来たりして研究しました」

7時から夜の12時まで練習場に入り浸り。時間だけはたっぷりあった。球を打っては食事の時間に雑誌を読みあさった。

しかしビッグ5の身長と体重を知り自分にこのスウィングは難しいと理解してからは「L・ドナルドとかL・ウーストハウゼンとか、どんどん身長の小さい選手を参考するようになりました(笑)」。

「グーセンは雷に打たれて強くなったという話を聞いて、自分も雷に当たれば強くなるかなと考えたり(笑)。スウィングだけじゃなく選手にまつわる小ネタも好きでしたね」

本部高校時代には宮里3兄妹の父・優さんの指導を受けた。そういえば師匠も雑誌に載っていたゲーリー・プレーヤーの連続写真を壁に貼り真似をしてスウィングづくりをした人。奇しくも宮里さん最後の弟子も、連続写真を参考にして上達の道をたどった。

22年の快進撃のきっかけとなったのは、オフに訪れた沖縄で師匠にこう声をかけられたから。

「直されたのはボールの位置だけでスウィングはまったくいじられませんでした。『完璧だ』と送り出されたのが初めてだったので自信になりました」

師事してから大胆な改造を促されたことはない。いいスウィングをしたらいいショットが打てると思い、1日3000球打ってきたが、「宮里さんから、いいアドレスをするといいショットが打てるんだ、と教わりました。ミスはアドレスから生まれるという言葉は衝撃的でした。それを今でも大切にしています」

アドレスの注意点を尋ねると冗舌だった比嘉が口をつぐんだ。

画像: 師匠の宮里優氏から言われた「いいアドレスをするといいショットが打てる。ミスはアドレスから生まれる」という言葉を、比嘉は大切にしている

師匠の宮里優氏から言われた「いいアドレスをするといいショットが打てる。ミスはアドレスから生まれる」という言葉を、比嘉は大切にしている

「うーん、難しいですね。いっぱいあり過ぎて。でもヘッドを感じるためにグリップに力を入れないというのは気をつけています。いいときほどそれができている」

シーズン序盤から賞金レースのトップを走り、一時後続と倍ほどの開きがあったが、「差があったからこそ逆転されたらダサいというか、プロとしての自信を失うというか、ダメージが大きいと思ったので(ダンロップ)フェニックスで勝つ(4勝目)まではストレスを溜めていましたね」。

精神的な葛藤が内臓を直撃した。何を食べてもお腹の調子が悪くなり胃もたれする。そもそも食欲がない。そのせいで4キロも体重が落ちた。肌荒れもひどく口の周りにヘルペスができた。体に負担をかけないように練習量を減らしたのに、賞金王争いのプレッシャーが重くのしかかった。それでも勝ち切ったのは「相手の動きを気にするのではなく、あらかじめ設定した目標スコアを目指す。意識は他の選手ではなく自分自身」という確固たるスタイルがあるから。

「上がり3ホールで競り合いの場面では緊張しますし、正直目標スコアより相手のプレーが気になることもあります。でも自分のプレースタイルは崩さない。そうすれば、勝っても負けても納得できるし、負けたらそこで反省してまた来年と前を向けますから」

たとえばパー5でリスクを冒して2オンを狙ってバーディを取る確率と、刻んで得意な距離から寄せてバーディを取る確率は、1割対6割だと考える。だから3打目を想定し120ヤード以内の距離を徹底的に打ち込み、120ヤードから寄せワンのイメージを体に染み込ませた。自らの長所を生かす頭脳プレーである。

「プロとしての日は浅いですけれど、自分のゴルフを反省し見つめ直して課題を理解する。自分の得意なゴルフをすることが大事だと思っています」

自分の得意なゴルフをすると口で言うのは易しいが、実践するのは難しい。しかし比嘉はそれを貫く。だから強い。

「強みは、弱いところがないところ」と胸を張る彼の次なる挑戦は海外だ。日本ツアーの賞金ランキング上位3名にはDPワールドツアー(欧州ツアー)の出場権が与えられる。その資格で2023年はヨーロッパに主戦場を移す。

大学の先輩・松山英樹には以前から「もっと海外に出てこい」と誘われていた。それが叶う。

画像: 東北福祉大出身の2人。先輩松山英樹とともに、比嘉は今年、マスターズにも出場する

東北福祉大出身の2人。先輩松山英樹とともに、比嘉は今年、マスターズにも出場する

「夏場(22年)の1カ月間、ヨーロッパを転戦してみて大変さもわかったし、セントアンドリュース(全英オープン)では経験不足で自分には対応できないことを思い知らされました。通用するかはわかりませんが、成長できる場になると思うので挑戦します」

小さな比嘉が大男たちを倒す場面を想像すると痛快だ。目の肥えた欧米のファンも熱狂するに違いない。「できることをする」「緊張する場面を作らない」という達観したゴルフ観。比嘉なら海外でも何かやってくれそうだ。

「普通の会社員の家庭に育ったので、金銭面では親に苦労をかけました。ゴルフをさせてもらっているから誕生日もクリスマスもプレゼントもいらない。それ以上のものをもらっているから、と言ってきた。自分を犠牲に育ててくれた親には本当に感謝しています」

小さな賞金王の中身は飛び切りビッグサイズだった。

取材・文/川野美佳

※週刊ゴルフダイジェスト2023年1月10・17日合併号 「比嘉一貴、王者への道」より

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