松山英樹がディフェンディングチャンピオンとして出場するPGAツアー、ソニーオープン・イン・ハワイ。40年前の同大会では青木功が日本男子初の米ツアー優勝を飾った。
画像: 1983年2月、青木功が最終ホールでチップインイーグルを決め、日本男子初のPGAツアー優勝を果たした

1983年2月、青木功が最終ホールでチップインイーグルを決め、日本男子初のPGAツアー優勝を果たした

1928年に始まったハワイアンオープン。翌29年の第2回には、当時27歳の宮本留吉と24歳の安田幸吉の2人が参加。これが日本人プロゴルファー初の海外遠征だった。一行は横浜から航路でハワイへ渡ると、安田は初日、2日目を「78」「73」で予選通過。片や宮本は2日目を「71」で回り3位で終えると、36ホールで行われた最終日は、のちにマスターズを制するふたり、ホートン・スミスとクレイグ・ウッドと同じ最終組に。あいにくの悪天候で「78」「82」と崩れ13位、安田は17位に終わったが、笑顔を絶やさずプレーする小柄な日本人の姿に地元のギャラリーからは惜しみない拍手が送られた。

ハワイアンオープンは1965年からPGAツアーになり、1983年には最終日の18番で青木功が伝説のチップインイーグルを決めて劇的な優勝を飾るが、このとき逆転で敗れたのがジャック・レナーだった。青木のひとつ前の組で回り18番では2オンに成功。イーグルパットこそカップに蹴られたものの、バーディで締め青木に1打差をつけ19アンダーの単独首位でホールアウトしていた。青木がバーディでもプレーオフだったが、思いもよらない結果で、ツアー3勝目を逃し、しばし呆然と立ち尽くしたという。

だが翌年、レナーに再びチャンスが訪れる。またしても最終18番でバーディを奪い、首位を走っていたウェイン・レビに並ぶと、勝負はプレーオフにもつれこむ。そして2ホール目でレビが短いパーパットを外すと、レナーはウィニングパットを沈めて決着をつけ、1年越しのリベンジを果たした。

ハワイアンオープンは1999年から現在と同じ大会名のソニーオープン・イン・ハワイとなり、昨年、松山英樹が優勝した。

画像: 青木功の偉業の裏で、まさかの逆転負けを喫し2位に甘んじたジャック・レナ―。だが翌年の同大会で、その雪辱を果たし、1年後の優勝を果たした。ディフェンディングチャンピオンの青木は13位だった

青木功の偉業の裏で、まさかの逆転負けを喫し2位に甘んじたジャック・レナ―。だが翌年の同大会で、その雪辱を果たし、1年後の優勝を果たした。ディフェンディングチャンピオンの青木は13位だった

※週刊ゴルフダイジェスト2023年1月24日号「ニッポンゴルフ初物語」より

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