昨年11月、82年の生涯を閉じたプロゴルファー金井清一。新潟の農家から秋葉原の電気店へ就職し、店にあった「鳥かご打席」でゴルフを覚えてプロとなり、“公式戦男”と呼ばれるまでのトッププレーヤーに。シニア入り後も活躍し続けたゴルフ界の功労者の人生を改めて振り返る。
画像: レギュラーツアー12勝(73年以降)、シニアツアー17勝の金井清一

レギュラーツアー12勝(73年以降)、シニアツアー17勝の金井清一

プロ入りして7年目、金井の初優勝は劇的な形で降りてきた。  

1972年、紫CCすみれCで行われた日本プロゴルフ選手権。3日目、首位に立っていたのは金井であった。2打差で2位は、金井より7歳年下のあのジャンボ尾崎こと尾崎将司。 

尾崎はプロ野球界から転身し、それまで“職人技”の世界だったゴルフを圧倒的パワーで、いわば、アスリートが競うゲームへと変えたのだった。1970年にプロ入りすると、翌年には日本プロを含む5勝。73年には日本ツアーは倍増し、ツアー自体を“創設”したとまでいわれた革命児。つまり72年というのは、尾崎にとって日本プロ2連覇がかかっていた年である。 

尾崎はインタビューで首位と2打差の感想を聞かれると、

「2打差というのは1ホールでひっくり返る差ですよ。バーディとボギーでね」

と自信満々。ビッグマウスぶりも、これまでのゴルフ界にいないキャラクターだった。 

しかし金井は

「何度でも言うけど勝つのは僕じゃありません」

と謙遜する。事実、最終日、バック9に入った10番で尾崎に逆転されてしまう。「ああやっぱり」とため息がギャラリーから漏れる。

しかし、ここから金井の粘り腰の進撃が始まる。 

13、14番と連続バーディで尾崎を再逆転。17番では自分の背丈より高いバンカーから20㎝につけ、尾崎をして

「金井さんは強い。土壇場であんなすごいショットができるのだから……」

と慨嘆させた。 

尾崎の華やかなウェアと派手なアクション。それとまったく対照的なモノトーンの地味なウェア、言動、そして少し後退しかけた頭により年齢より老けて見える男に、こうして凱歌が挙がったのだ。 

この年から4年後の日本プロでも尾崎を退け、現在でも大会史上最多の4人(安田春雄、謝敏男、榎本七郎)のプレーオフを制して2度目の栄冠を勝ち取る。

このときから、“公式戦男”の名がマスコミの見出しに躍った。事実その後も関東プロ、関東オープン2勝と当時の公式戦タイトルを獲得している。コースセッティングが厳しくなる公式戦に強いということは、まさにドライバーからパットまで総合力が優っていることの証左だろう。レギュラーツアー12勝の記録を残す。

金井は1940年、新潟県の豪雪地帯に生まれた。実家は米作農家であったが、その米の飯が食えず、幼少期はサツマイモばかり食っていたと述懐する。金井少年はスポーツでも、勉学においても特に目立ったものはなく、凡庸だったとも。 

そんななかで一つだけ熱中したのが鉱石ラジオの組み立てだった。実家で縄を編む仕事で駄賃を貯め、3台の故障したラジオを手に入れ、組み合わせて、音を出したときの達成感は夢心地だった。

「自分が最も熱中できるのはラジオの組み立てだ」

と悟る。 

この成功体験を頼りに通っていた夜間高校もやめ、東京・秋葉原の電器店に就職するのだ。しかし配属されたのは研究部門でなく、会社が持つ貸しビルの管理部門。仕事といえば掃除やエレベーターボーイなど雑用だった。 

腐る金井に幸運をもたらしたのが、屋上にある“鳥かご”練習場であった。 

電器店の創業者や来賓のために造られていたが、金井の雑用の仕事にはこの練習場のボール拾いなども含まれていた。誰もいない隙を見て貸しクラブで、見よう見まねで打ってみる。当たらないことが不思議で、金井はここに面白さを見出していく。この鳥かごが金井の運命を変えたと言っていいだろう。 

鳥かごだからむろんボールの行方はわからない。

当然、心眼は自分のスウィングにのみ向かざるを得ない。自分の体の動きを客体化し、俯ふ瞰かんの目でひたすらスウィングづくりに励む。

このとき、参考にしたのが、当時、ベストスウィンガーと謳われた陳清波の連続写真だった。 

はたから見れば果てなき退屈な修練にみえるが、これが雪深き北国に生まれ、春をひたすら待ち続けた男の忍耐力かもしれない。 

こうしてどこにも力みのない、リズム、テンポ、タイミング三位一体のナチュラルスウィングを手に入れる原型をつくったのだ。鳥かごだったからこそ雑念を取り払い、己のフィジカルに集中できたといえる。       

プロゴルファーになる決意を固めた金井は電器店をやめる。かといってプロになる方法は何一つとして知らなかった。18歳という若さが持つ行動力だ。

ただ鳥かごでインストラクターを務めていた我孫子GC出身のプロ小池五郎の知遇を得ることになる。ここからプロ修業への道を歩み始める。 

後年、我孫子一門プロの青木功、鷹巣南雄、海老原清治らとグループを組み、仲が良かったのは小池の影響による。 

紆余曲折を経て、金井は上板橋の練習場へ就職。ここから練習場連盟の研修会を経て、3度目のプロテスト挑戦で、1965年、25歳でプロ合格を果たす。つまりゴルフ場の研修生にならず、練習場からプロになった稀有な存在だが、小池のコネで、東京都民ゴルフ場で実戦を積んだのは大きいと、金井はよく漏らしていた。

まだ客が入っていないコースを回るのである。日が昇らぬうちに、小池から譲り受けた古いクラブをかつぎ、四畳半のアパートから自転車でやってくる。 

東京都民Gは河川敷のパブリックコース。他の会員コースのように手入れはされていない。荒れた芝、泥水を含んだライも多く、しかし悪条件だからこそ、アプローチの多彩な技を手に入れる練習ができたのだ。また川風も強く、その風に負けないパンチショットも覚えた。 

謙虚な金井だが

「おれのパンチショットは、日本では青木に次ぐと思っている」

と言っていたから、よほど自信があったのだろう。

画像: 96年、田中誠一のもとで塩谷育代とともに汗をかく金井。フィジカルを整えることの大切さをゴルフ界にもたらした

96年、田中誠一のもとで塩谷育代とともに汗をかく金井。フィジカルを整えることの大切さをゴルフ界にもたらした

金井はレギュラーツアーで12勝しているが、シニア入りしてからまた一段とギアを上げている。

日本シニアオープン3勝、日本プロシニア2勝を含む17勝。“公式戦男”の面目躍如であろう。シニアでの賞金王は1993年から4年連続を含む5回。これは現在でも歴代最多記録である。 

シニアツアーで長く活躍できたのは、東海大学教授で運動生理学が専門の田中誠一のバックアップの力が大きい。

金井は最初、尾崎のパワーゴルフに対抗するためには、自分の体をベストに保つための科学的トレ―ニングが必要と、日本プロゴルフ界で初となる専属トレーナーを田中に依頼したのだ。 

田中は東京教育大学(現筑波大)体育学部卒業後、東京五輪でバレーボールのコーチなどを務め、スポーツサイエンスの第一人者と目されていた。田中は金井のツアーに同行し、24時間、金井の体のコンディションをコントロールした。 

金井の海外での1勝は86年の香港オープンだが、このときは当方も同行取材した。 

最終日、試合の終了後、お祝いにと日本からやってきた記者たちが夕食の招待を申し出たのだが、やんわりと断られてしまった。

当方が宿泊先の部屋に立ち寄ると、そのころはまだ珍しかったストレッチを田中が施術しているのを目撃ている。優勝を決めたその日にも、体の手入れに余念がなかったのである。 

金井のレッスン記事はゴルフダイジェスト誌で何度も掲載された。

中でも76年の日本プロ2勝目の後の「強さの秘訣を訊く」は当方の記憶に残る。読み返してみると
――。

「スウィング軸の頭は固定しておいて頭、グリップとシャフト=ヘッドが一直線になってインパクトを迎えること。これをいつも再現できるようにイメージしている」 

後年、頭が不動であることを実証するため、頭の上に水の入った紙コップをのせてシャドースウィングまでしてみせた。

サービス精神に富み、かつアイデアマンであった。 

当方のような駆け出し記者にも、決して高みから物をいうことはなく、プロの技を聞くのには素人の当方の域まで降りてきてくれて、

「おれの技術のここをどう思う?」

と質問さえしてきた。そんなときの金井は少年のような目をしていた。

その目は多分、鳥かごで夢中になってボールを打っていた目と同じではなかったろうか。 

虚心坦懐の人だった。 

独学でスウィングをつくってきた人なので、出版社からの著作の依頼は引きも切らず、44冊上梓している。そのなかにはゴルフダイジェスト社刊『ゴルフは歳をとるほど上達する』(1997年、田中誠一共著)がある。

シニアツアーから身を引き、多摩市にある練習場のプロショップを経営し、自らも教室など開き余生を送った。 

大学のゴルフ同好会に入部し、その練習場で球拾いのアルバイトをしていたのが小山武明(タケ小山)だった。球拾いの合間を縫ってボールを打つ姿を金井が見て、「その飛距離があるならプロになれるよ」

その言葉は進路を迷っていた小山青年の心を突き刺した。

「あの一言が僕の人生を決定づけました」 

その後、フロリダでゴルフ修業していた小山は、全米プロシニアなどで渡米した金井のバッグを担いだ。

「今、こうしてゴルフでメシを食っているのは金井さんのおかげです」

と偲ぶ。

レギュラーツアーとシニアツアーで活躍したほか、77年にはワールドカップ日本代表として個人4位。ゲーリー・プレーヤー(南ア)、ヒューバート・グリーン(米)、セベ・バルステロス(スペイン)など、当時の強豪に交じっての4位だけに価値があったろう。団体でも島田幸作と組んで4位タイ。 

17年、日本プロゴルフ殿堂入りも果たした。 

ゴルフ界のさまざまな人に思いを残して金井、鬼籍に入る。

徒手空拳で地方から上京し、功成り名を遂げた昭和のサクセスストーリーがまた一つ消えた。

(文中敬称略)

文・古川正則(ゴルフダイジェスト特別編集委員) 写真・ゴルフダイジェスト社写真室

※週刊ゴルフダイジェスト3月7・14日号「“鳥かご”からプロの頂点に立った男 金井清一」より

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