「使命(ミッション)」の多い人だ。ただ、その“天から授かった”ミッションに気付く人と気付かない人がいて、井上は完全に前者だ。
●ゴルフを始めたきっかけ
野球少年だった井上。
「ポジションはキャッチャーで、ゲームのコントロールや配球を考えるのが大好きでした」
当時、発売されたばかりの8ミリビデオで自分の投球やバッティングフォームをプロの選手のそれと比べていた。甲子園を目指し法政二高に進むもケガで断念。まだ高1だ。
「エネルギーを持て余していたとき、ふと、ゴルフの練習場に行ってみようと思ったんです。理由は、自宅から100メートルのところにあったから(笑)」
興味があったわけではなかったが
「初めて練習場に行ったとき、一瞬で、ああ、これは面白いと思いました」。
●理想はニック・ファルド
ちなみに、井上は初めての練習場にも8ミリビデオを持参し、自分のフォームを分析したという。理想はニック・ファルド。自身とファルドのフォームを比較しながら練習に励み、3カ月でラウンドデビュー。
「父と回って107回でした」
ただ、当時は頻繁にラウンドはできなかった。
「父の仕事が休みで、運よく予約が取れたときです。2回目のラウンドでは100を叩いていないので、100叩きは初ラウンドの1回だけ。ただ、大前提としてめちゃめちゃ練習してます。学校から帰ったらすぐ練習場に行って毎日4時間半くらい。うまくなりたい一心でした」
5ラウンドした頃、スコアは80台半ばになり
「高校ゴルフ連盟の試合にエントリーしました。7ラウンド目が試合です。河川敷のやさしいコースですが練習ラウンドで79。でも、試合では87か88叩いたのかな。悔しくて、そこからまた練習の日々。高3のときには半分くらいは70台で回れるようになっていました」
●高校、大学、アメリカ……
高校を卒業後、法政大へ。体育会ゴルフ部に入部するが
「ゴルフ特待生のための部活という雰囲気もあり、半年で退部しました」
その後はサークルでゴルフを続けていたが、実はその頃すでに「アメリカに行く」と決めていたという。
「自分は70台で回れるようになりましたが、平気でパープレーやアンダーで回る選手もいる。そんななか、自分が短期間でうまくなるには、そしてプロゴルファーになるには、環境を変えるしかないと思ったんです」
大学2年の夏休み、まずは1カ月余りアメリカへ。いったん帰国し、大学は退学。両親を説得し再渡米した。
「最初の半年はアマチュア選手としてコーチのマイク・スミスに師事。その後、プロ転向し、21歳でミニツアーに参戦。日本人選手が多く所属するアカデミーもあり、1つ上の谷将貴さんがいました」
●アメリカでゴルフの超最新理論に出合う
仲間も多く、アメリカでも日常生活で困るようなことはなかった。
「朝起きて、アプローチとショット練習を2時間ほど。1ラウンドしたらまた練習し、夜はトレーニング。これを毎日。ただ、コースは家から車で5分、10分です。ゴルフのプレー代は30ドルくらい。当時、1ドル85円くらいの時代です。日本でラウンドしようと思ったら当時、平日3万円、土日は4万円はかかりました。とにかくゴルフ環境が段違いでした」
そして、楽しみながらうまくなる、その感覚は当時の日本の大学のゴルフ部とは別物だった。
「ゴルフは個人スポーツなんだけど切磋琢磨できる。情報が共有できるという点でも仲間は大事だと思いました」
ただ、アメリカでゴルフの超最新理論に出合って驚く、といったことはほとんどなかったという。
「日本でありとあらゆるゴルフ雑誌に目を通し、レッドベターなど海外のレッスンプロの本も読み尽くしていたので、日本に伝わっているゴルフ理論が遅れているなんて思うことはなかったですよ。ただ、既存のゴルフ理論はここまでで、これから先は自分でやらないといけないんだな、と思い知ることにはなりました」
●食べていける道は「コーチ」だと思った
自分で考えて、実践するクセは身についたが、アメリカゴルフ留学には親から与えられた期限があり帰国。
「日本のプロテストも受けたんですが、途中で落ちてしまって。ある程度のレベルには達していたと思うんですけど、ツアー選手レベルではなかった。でも、経済的には自立はしなければなりません。そこで、ツアープロを目指しながら自分で食べていける道として『コーチだ』と思ったんです」
しかし、それは井上が帰国後しばらくの話。その後、コーチの道一本に腹をくくることになる。
●片山晋呉が「お前、すげえな」
「縁があり、アメリカのゴルフスクールに指導者として赴き、半年間ゴルフの先生をしました。当時は生徒に今井克宗さんがいました。ミニツアーで片山晋呉さんと回ったのもこの頃。片山さんと僕とではゴルファーとして天と地の差がありました。かたや日大のエース、かたや法政の補欠(笑)。ほぼ面識はなかったんですが、試合後、話していたら『お前、すげえな』と。『日本に帰ったらキャディやって、スウィング見てよ』と言うんです」
帰国し、実際に片山のバッグを担いだ。すると、ツアー現場で
「片山さんが『こいつ、すげえんだよ』とほかのプロに話してくれて」
結果、
「米山剛プロ、杉本周作プロからコーチのオファーを受けました」
ツアー帯同コーチというバッジもない時代。
●中嶋常幸のツアー帯同コーチ
「僕が23か24歳の頃ですね。その後、中嶋常幸プロのコーチになったことで『ツアー帯同コーチ』の存在が広まったという感じでした。当時の男子ツアーは、片山さんが最初に『すげえよ』と言ってくれたおかげもあってか、新参者の自分のことも面白がってくれました。そんな雰囲気があったんです」
しかし、プロが井上を面白がったのは
「根底には自分がアメリカで学んできた理論があって、それが受け入れられたんだと思います」
そして、今、思い出しても鮮烈だったというのが中嶋常幸との出会い。
「僕が米山プロの後ろにいたら、やって来て『誰?』って。米山プロが紹介してくれたので、アメリカで勉強したことを話したら『俺が出すテーマについて来週までにレポートを書いてきてくれない?』と」
●プロのサポートが「使命」
テーマは「グリップ」。
「必死にやりましたよ。翌週、紙にまとめて渡したら、それを中嶋さんが読んで次のテーマをくれる。それを6週くらい繰り返したかな。アナログでしたね(笑)。でも、僕にとってゴルフは学問だったから、そのやり方は好きでした」
正式にコーチになった頃にはツアープロになりたいという思いは消え、プロのサポートを使命と感じるようになっていた。
「若い選手も多く、プロ選手でありながら、伸びしろがたっぷりあるというような状況。今の選手は出てきたときからもうピーク、みたいな感じですが、当時はプロになってからどんどん伸びる。そこに面白さがありました。コーチするプロの優勝も何度も経験しました」
そして思う。
「自分はなんてラッキーなんだ」
「自分を自立させてくれたゴルフ界に恩返しをしたい」
●早稲田の大学院
井上は27歳にして、ジュニアスクールの設立を決意。
「当時の『ゴルフダイジェスト』で第1回のオーディションの告知をしました。応募してきた一人が吉田弓美子で、彼女がスクールの一期生です」
スクールは成田美寿々や川岸史果らを輩出。井上透といえば、女子プロのコーチというイメージはこのあたりに起源がある。
井上が指導する選手が女子ツアーで活躍するなか、ターニングポイントがやって来る。2009年、
「早稲田の大学院に行くことが決まったんです」
きっかけは、
「野球の桑田真澄さんが大学院で勉強するというニュースを聞いたんです。スポーツ界を引退して、その後、勉強するという道があるなんてと驚いて、同時にうらやましくて。すぐに大学院入学に向けてリサーチを始めました。僕は法政大を2年で中退しているので、まず大学の卒業認定が必要でした」
●早稲田大学大学院の最優秀論文賞
認められたのち、願書提出。
「大学院でどういう研究をしたいか、僕の場合、ゴルフの育成パターンについて研究したい旨をまとめ、合格しました。在学中は熊本に行って坂田塾の設立について調べたり、沖縄で宮里優さんに話を聞いたり、韓国にも行って練習環境のリサーチもしました。卒論は『韓国におけるプロゴルファーの強化・育成に関する研究』です」
これが2011年の早稲田大学大学院の最優秀論文賞に。
「もともと好きなことを深掘りするのが大好き。大学院は本当に行って良かった。入学前も在学時も、もちろん、仕事をやりながらなので大変でしたが、学ぶって本当に楽しい」
当時は、ちょうど長男の中学受験の時期とも重なって、アラフォーの父と小学生の息子がお互い“やっているな”という雰囲気があったという。
●ジュニア育成
また、井上は大学院でジュニアゴルファーの強化や育成に関する研究を行いながら、国際ジュニアゴルフ育成協会を設立。世界で最も権威のあるジュニア大会の一つ「世界ジュニアゴルフ選手権」の日本代表を選抜し派遣する権利も得た。
派遣した選手を挙げると、中島啓太、蟬川泰果、久常涼、河本力、畑岡奈紗、西郷真央、吉田優利など、今をときめくトッププロがズラリ。
しかし、井上は、世界で結果を残させるためだけに選手を派遣しているのではない。
「“世界”に触れさせると、行動変容が起こるんです。それこそ狙い」
視野が広がったり語学に興味が出たり……さまざまな行動変容が、その選手の人生の糧になり、どんな状況でもたくましく生きていけるエネルギーにつながるのではないか。もし、彼らがプロゴルファーにならなくても……。
●東京大学ゴルフ部のサポート
2016年、井上は新たな使命を得た。東京大学ゴルフ部のサポートだ。
きっかけは、当時高校生だった長男の先輩を通じ、東大ゴルフ部の様子が耳に入るようになったこと。
「恵まれた環境ではなさそうだ」
井上の使命感がうずき出した。月1ペースでの指導から合宿への参加練習ラウンド……。
すると2017年秋のDリーグ戦では男女とも優勝。Cリーグへと押し上げ、井上は監督に。
ちなみに、井上の長男も東大に合格。ゴルフ部で活躍した。東大ゴルフ部の選手たちは基本的にプロゴルファーを目指してはいない。
しかし、それが井上に新たなやりがいを感じさせたという。プロを目指す選手の指導はもちろんワクワクするが、プロにならなくてもゴルフが社会を生き抜くときの武器になるかもしれない。
「ゴルフに特化する人がいてもいいし、そうじゃなくて柱をたくさん持つのもいい」
井上に言わせれば、武器ではなく柱。
「複数の柱があるのがいいと思うんです。そして、彼らがゴルフを楽しみ、頑張りがいを感じてくれたら、その気持ちを将来、ゴルフ界に還元してくれるかもしれない」
井上が自分を育ててくれたゴルフ界に恩返しや還元がしたいと考えだしたのが27 歳のとき。そして、今50歳。論語によれば「天命を知る」歳という。
果たして、冒頭のフレーズに戻った。“天から授かった”ミッションに気付く人、と。(文中敬称略)
※週刊ゴルフダイジェスト2023年10月31日号「私の経歴書~ゴルフコーチ井上透」より