ツアー解説でおなじみの佐藤信人プロ。今回は、初シードを獲得した米澤蓮プロについて語ってくれた。
画像: 「パナソニックの最終日は、初日にトップに立ったツアー選手権と同じウェアを着用。ゲン担ぎですが、"信じる力"の強さを随所に感じます」と佐藤プロ(撮影/有原裕晶)

「パナソニックの最終日は、初日にトップに立ったツアー選手権と同じウェアを着用。ゲン担ぎですが、"信じる力"の強さを随所に感じます」と佐藤プロ(撮影/有原裕晶)

「現在活躍する若手の一角になることは間違いない」(佐藤プロ)

9月のパナソニックオープンで、優勝こそ逃したものの2位タイとなり、初シードを確実にした米澤蓮くん。

彼とはその前週に電話取材をする機会があり、直後の活躍は取材者としては嬉しいものです。しかし、その実力を考えれば、活躍は当然。そんな思いから、今回は米澤蓮くんを紹介します。

ゴルフを始めたのは小学生時代。公式プロフィールには「テレビのゴルフ中継を見て」がきっかけとなっていますが、話を聞くとこんなエピソードがありました。

それは小学校時代のある休日のこと。家族でニトリに買い物に行くも、開店時間を1時間間違え、早く着いてしまいました。その隣にあったのがゴルフ練習場で、「ボクもやってみたい」のひと言がゴルフとの出合いだったそうです。

ユニークですよね。岩手出身ということから、口数の少ない東北人というイメージをボクも持っていました。

ところが「ボクはまったく人見知りをしないタイプの子どもでした」と自己分析。両親はまったくゴルフをしませんが、練習場で出会ったおじさんたちに声をかけて可愛がられては、ゴルフに連れていってもらえる環境を自分自身で作り上げていったそうです。

確かにじっくり観察すると、外国人選手にも平気で声をかけるし、多くのプロからも愛されるキャラクターです。

ジュニア時代から、岩手、東北では向かうところ敵なし。東北ジュニアは各カテゴリーで5勝、高校時代は東北高校選手権3連覇。18年に東北福祉大に進むと、1年先輩の金谷拓実、1歳下の中島啓太とともにアジア大会で日本チームを団体金メダルに導きました。

そして翌年、大学2年で出場したダイヤモンドカップでは、優勝した浅地洋佑に1打差の2位になり、その存在を広くアピールしました。ちなみにこの試合が、18年の日本オープンに続くツアー2戦目でした。

その後、アマチュアとしてプロの試合に13試合出場していますが、予選落ちがわずかに1試合。目立ちませんが、これは珍しいし、またすごい記録です。

ただ、その後はコロナ禍に入り、またちょうどプロ転向する21年頃に不調に見舞われました。

この時期は金谷、中島、蟬川泰果が、またABEMAツアーを含めれば同年代のアマチュアが次々と勝ったので、焦りがなかったといえば嘘になるでしょう。不調の原因として、パッティングで深刻なイップスに悩んでいたことを明かしてくれました。

昨年はABEMAツアーで裏シードは取れなかったもののスタッツでパーオン率は1位。この数値にはショットの安定感と同時にパットへの悩みが表れているとも言えます。

しかし、同年代の活躍については、「ゴルフ人生は長いので、自分のピークはまだ先にある」と、言い聞かせていたそうです。そして、どうやらその時期が近づきつつある、とも感じます。

ひょうひょうとして焦らず虎視眈々と。彼が、現在活躍する若手の一角になることは間違いないでしょう。

※週刊ゴルフダイジェスト2023年12月5日号「うの目 たかの目 さとうの目」より

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