複雑化する現代社会。禅の教えから学ぶことは多く、ゴルフに通じるものも多い。2024年3月12日号の「週刊ゴルフダイジェスト」では、メンタルトレーナーの赤野公昭氏が師匠でもある禅僧の藤田一照氏と対談する様子を掲載している。メインテーマは「平常心」。ゴルフ上達だけではなく生き方のヒントも隠れているこの対談を、みんゴル読者にもお裾分け。

話者プロフィール

   

●赤野公昭(あかのきみあき)

1972年岡山県生まれ。世界のアスリートを育てたアメリカのトップメンタルトレーナー、ジョセフ・ペアレント博士に師事。

日本古来の「禅」と欧米の最新理論を融合させた独自のメソッドでプロゴルファーやプロ野球選手などを指導する。現在も藤田氏のもとで禅の修行にも励んでいる。

画像: 赤野公昭氏。

赤野公昭氏。

画像: 藤田一照氏。

藤田一照氏。

   

●藤田一照(ふじたいっしょう)

1954年愛媛県生まれ。東京大学教育学部を経て同大学院で発達心理学を専攻。坐禅に出合い深く傾倒し28歳で博士課程を中退し禅道場へ。29歳で僧侶に。

33歳で渡米し17年半にわたり坐禅を指導する。現在も神奈川県葉山を拠点に広く(オンライン含む)坐禅の参究・指導にあたる。

禅の視点でみる「平常心」とは

赤野 平常心を仏教では「びょうじょうしん」と読むんですよね。

藤田 「へいじょうしん」でも、読み方はどちらでもいいのですが、本来の意味は皆さんが思っているのとは少し違います。仏教や禅の言葉は日常語になって日本語のなかに入っていますけど、元の意味とは全然違う場合がある。皆さんが「平常心が大事」と言うときはだいたい、何が起きても動じないという感じで理解されてますよね。

赤野 はい。ゴルフでは「常に平常心で」とか「上手くいっても喜ばず、ミスしても悲しまず淡々と」という意味で使ったりします。「無心」でいたほうがいいという言葉もよく使います。

藤田 平常心にしても無心にしても、多くの人は特別な心の在り方だと思っている。特別ということは非日常的ということ。普段の私は違うけれど、ゴルフやプレゼンなどのパフォーマンスをするときに平常心や無心でできたらいいなあ、という使い方をしますよね。

赤野 そういう文脈です。そのために坐禅などが有効だとされます。

画像: 「禅の『平常心』は、一般的に使用されるときとは意味合いが違う」と藤田さんはいう。

「禅の『平常心』は、一般的に使用されるときとは意味合いが違う」と藤田さんはいう。

藤田 今は実現されていないことを将来の目標や目的にして、そこにどうしたら無駄なく素早く効率的に到達できるか。これが私たちの普通の思考法です。

赤野 心が落ち着いていないから、落ち着いた状態にしたい、平常心になりたい。そのためにはどうしたらいいかという求め方なんです。

藤田 多くの場合は、どうしたら「不・平常心」から「平常心」になれるんだろう、ならなければいけない、なったほうがいい、という“傾き”のなかで語られる。でも、そういう枠組み自体を超えたところにあるのが平常心なんです。今ないものを手に入れようとするから心も体も緊張して、アドレナリンが出て闘争状態になる。それだと落ち着いている状態とは逆の方向にいくんです。ですから落ち着きや平常心というのは、そういうアプローチでは手に入らないものだということをまずは理解しないといけません。

赤野 私たちコーチもそこはよく理解しておかないといけませんね。改めて、禅で言う「平常心」とは何でしょうか。

藤田 中国語の「心」という言葉は、「無心」も「平常心」もそうですけど、禅では独特の使われ方をしている。私たちが普段考える「心」は心理学で扱っているような心です。

赤野 マインドやハートととらえがちです。

藤田 はい。個人に所属する心、心理状態ととらえますよね。だから平常心は、私の心の状態が平静なことだというふうに思われるんですけど、禅の文脈で「心(しん)」は、この大宇宙の活動のことを言います。大自然の働きと言ってもいい。その働きで私たちは生かされているのです。自分で生きていると思っているけど、実は生かされていて、自分でやっていることなんかわずかしかない。

赤野 本来はそうなんですね。

藤田 そういう意味の心では何が起きても平常、つまり当たり前で、なんともないことです。東日本大震災のときにあれだけ街を破壊した津波がありましたが、翌日海は凪いでケロッとしている。どちらも同じ海の平常の働きです。喜怒哀楽も私たちにとっては、海の波のようなもので、エネルギーが高まるけど、高まったままでは絶対に終わらずにまた当たり前に戻っていきます。上がっても下がってもそれは平常なことなんです。

画像: 藤田「呼吸を船の錨(いかり)のように使うとよい」 赤野「今ここの自分を取り戻せます」

藤田「呼吸を船の錨(いかり)のように使うとよい」 赤野「今ここの自分を取り戻せます」

赤野 上がったら必ず下がるような、自然の働きということですね。

藤田 人間の狭い了見で見ると、災害や災難、また喜怒哀楽という感情の波は人によってはそれで自分の命を断ったり、人の命を奪ったりというドラマにすらなることがありますが、心から見ればそれは当たり前に起きている平常なこと。青空が一転にわかにかき曇り、雷が鳴って雹が降っても、またすぐにカラッと晴れる。そういう在り方が平常心なんです。個人の心理状態云々の話ではなくて、それくらいスケールの大きなところから自分を見るという、別の視点を持つことを教えている。世間では個人のしのぎの削り合い、プロゴルファーだったら賞金獲得の勝負をしていますけど、それだけだと視野が狭い。勝負の世界に生きる人であればあるほど、その勝負を離れて、そんなことが問題にもならないようなおおらかな視線も持っておく必要がある。別に勝負を軽んじろという話ではなくて、無勝負の世界に足を置いて、勝負の世界で手を使うという感じでしょうか。それが、結果的にゴルファーが必要と感じている落ち着きの土台になると思うんです。落ち着きや無心の状態を直接つかみに行くのではなく、条件を整えてそれがやってくるのを待つ。

赤野 コントロールできると思うのがそもそも間違いですね。

藤田 自分がコントロールしなければ、というのがもう平常心を失っていること。落ち着こうと思うと余計焦りになってしまうということは皆さんよくご存じでしょう。

赤野 緊張状態が起きて、気持ちと闘争してしまうということが最たるものです。起こってくる気持ちと戦わない在り方と言ってもいいかもしれないですよね。

藤田 焦りなら焦りをそっと置いておける心のスペース、許容量を持つことですね。

煩悩が生まれるかどうかは自分次第。外からの“刺激=受”をどう受け入れるのか

赤野 怒りにはどう対応していったらいいのでしょうか。

藤田 怒りは突然噴火するのではなく、ゴゴゴと地鳴りがしてだんだんマグマが上がってきてマグマだまりができて、もう許容ができないときにドカーンと出てくるんですよ。

赤野 前兆があるんですね。

藤田 はい、プロセスがあるんです。仏教ではそれを瞑想のなかで分析していて、まず「受(じゅ)」がある。私たちの感覚器官に刺激が触れるとそこに、「快」「不快」「どちらでもない」という3種の「受」のいずれかが起こる。これは喜怒哀楽の“種”のようなもの。私たちはただの「受」で済まずに、「快」なら「もっと欲しい」と「貪り」になっていき、「不快」は「嫌だ、あっちいけ」と「怒り」になっていくんです。

赤野 「どちらでもない」は?

画像: 「怒り」について、禅では瞑想のなかでプロセスを分析しているという。

「怒り」について、禅では瞑想のなかでプロセスを分析しているという。

藤田 これはどうでもいいと無視することで、「愚かさ」になる。在るのに無いと思うようにするからです。

赤野 それが貪瞋痴(とんじんち)(貪り・怒り・愚かさ)という3つの煩悩になっていくんですね。

藤田 ですから、自分と無関係に煩悩があるのではなく、私たちが受を煩悩にしてしまうんですよ。仏教では受を「第一の矢」と言います。その後に起こる貪瞋痴は「第二の矢」。漢字を見ればわかりますが、煩悩は私たちを煩悶させ悩ませる。それは自分自身がやっていることなんです。だから「受」の次の段階が煩悩にならないような回路を作りなさいと言うわけです。

赤野 ちなみに、「受」が来た時点で、「受が来た!」というようなものを感じられていますか?

藤田 感覚機能が働いている限りは常に受がありますから、たとえブッダでも、第一の矢は受けるんです。受は生理現象なんです。

赤野 皆に当然起こるものと。

藤田 はい。受に反応して「もっと」とつかむ手を出したり、「嫌だ」と相手を押しのけたり、自動的・反射的に起きる行為を「リアクション」と呼びます。

赤野 ほぼ瞬間的に起きるということですか?

藤田 瞬間的と言っても、実はそこにはプロセスがあるんです。解像度の高い観察力を養うと、「受」とそれに対する「リアクション」を別のものとして区別して見ることができます。「受」は生理現象で生存に大事だから訓練でどうこうするものではない。熱いのに全然感じないのは危ないでしょう。受は肉体を持っている限り回避できないからそれはそのまま受け入れる。問題は「リアクション」。これは学習によって制止することができる。気持ちいいことが起こると、もっと、というリアクションがすぐに起こりますが、そこですぐに行動を起こさない。これが制止です。ポーズ(休止)する。そして制止の後に選択肢を設けて、そこから選ぶ。これを「レスポンス」と呼んでいます。「反応」ではなくて「対応」。これが智慧です。

ラウンドでも使えるグラウンディング
※「グラウンディング」とは精神的エネルギーと身体的エネルギーのバランスを取ること。ひいては平常心を深めることにつながる

画像: 呼吸法を訓練することで、グラウンディングの感覚が生まれてくる。

呼吸法を訓練することで、グラウンディングの感覚が生まれてくる。

① 邪気吐出法
体のなかにたまっている空気を全部吐き出す。鼻から大きく息を吸って、みぞおちを押さえて、指をそーっと押し込見ながら、口から「はあーーーーっ」と大きく吐いていく。口を開けて思い切り吐き出すのがコツ。3、4回行う。

②正気吸入法
口から空気を吸えるだけ吸って肺いっぱいに入れて口を閉じる。つばを飲み込み、つばがゆっくり落ちていくスピードに合わせて胸にたまった空気を「う〜む」と声に出しながら下腹にすべて下ろす。下腹の充実した感じをできるだけ長く味わってから、息を吐きたくなったら、下腹の充実感を失わないように留意して、鼻からゆっくり息をもらしていく。1回で十分。

③全身行気法
頭頂部から天のエネルギーをもらって体に満たす。水を蛇口から容器に入れるような感じで頭から足の先まで体のなかに気を満たしていく。新鮮なエネルギーが体全体に満ちて風船のように膨らんでいく。吐くときは足の裏からフーッと地球の中心に向かって深くゆっくり吐いていく。これを繰り返していけばグラウンディング感覚が生まれてくる。

<【動画】さらに具体的な呼吸法を動画で確認しよう! >

プロたちは禅の「平常心」を得ようとしているのか?

2名による対談はまだまだ続く。2024年3月12日号の「週刊ゴルフダイジェスト」またはMYゴルフダイジェストを是非ご覧あれ!

PHOTO/Tadashi Anezaki、Getty Images

※週刊ゴルフダイジェスト2024年3月12日号「禅から得る力 藤田一照×赤野公昭」より一部抜粋

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