ツアー勝利数113勝という空前絶後の記録を達成した“ジャンボ尾崎”こと尾崎将司。現在は、原英莉花、佐久間朱莉、小林夢果を始めとする多くの女子プロたちの師も務めているが、現役時代は1997年に世界ランキング5位、2010年には世界ゴルフ殿堂入りも果たした。そんな目覚ましい記録を有するジャンボ尾崎は、これまでにいくつかの名言を残している。その名言を7ヵ条とし、今回は113勝を記録する足掛かりとなったドローボールについて語ったインタビューを紹介する。

「ドローボールという猛獣を、飼いならしてこそもう一歩先へ行けるんだ」

画像: ジャンボ尾崎の師である林由郎。

ジャンボ尾崎の師である林由郎。

尾崎は元々フェードボールが得意だった。尾崎はプロ入りする前、習志野CCで修行したが、その時のヘッドプロがフェード打ちの名人、林由郎だったからだ。

林が亡くなった時、尾崎は「林さんが『ベン・ホーガンはワイングラスを満タンにし、それを左手でこぼれないように持つのが自然なグリップ』といっていたのを思い出す」と述懐していた。ウィーク(スライス)が自然なグリップというわけだ。

その林直伝のフェードを駆使して国内では敵なしの尾崎だったが、海外に遠征するようになるとフェードボールだけでは通用しないことを身をもって知らされる。

「国内のコースでは距離的にもフェードだけで十分。しかしメジャーをやるような米国のタフなコースでは、ドローボールを打たないとパーオンできないホールが出てくる」「ドローはフェードと違って、チェックポイントがたくさんある。フェードはフェード幅の大小の違いだけだが、ドローは体をコントロールしなければチーピンにもなるし、プッシュアウトにもなりうる。だからフェ-ドを持ち球としても、ドローをコントロールしなければ世界に伍していけない」と語っている。

国内では尾崎の好敵手、青木功はフェードで開眼し、世界でも通用したが、「(青木さんは)フェードをマスターする前にフックでどえらく飛ばしたと聞いている。だからドローを打たなければならない時でも、容易に打てるのだと思うよ」と尾崎は分析している。

画像: 何度もマスターズに出場したが、1995年のマスターズでは3日目に初出場のタイガー・ウッズと同組でプレー。当時尾崎48歳、タイガーは19歳。

何度もマスターズに出場したが、1995年のマスターズでは3日目に初出場のタイガー・ウッズと同組でプレー。当時尾崎48歳、タイガーは19歳。

1991年のマスターズ。この年は四十肩で悩まされ、現地で痛み止めを飲んでの出場だったが、初日68の自己ベストスコア。キャディを勤めた佐野木計至の述懐から場面を再現してみよう。

この日のキーとなったのは13番パー5。左ドッグレッグで左サイド、グリーン手前を横切る形でクリークが流れている。よってティーショットは軽いドローボールが理想だが、ちょっとかかり過ぎるとクリークの餌食になる(1978年、中嶋常幸はクリークに入れて13の大叩き。今でもワースト記録として残っている)。かといって、まっすぐ打つと林か、よしんばフェアウェイに残ったとしても、前上がりライになって距離も残る。だから長いクラブでの2オン狙いには、グリーン手前のクリークがリスクになる。

そこで尾崎はスプーンを選択。このティーショットが絵に描いたようなナイスドローで、残り183ヤード、5番アイアンで2オンに成功。8メートルを沈めてイーグル。

それまで苦手としていた13番を攻略できたのは、苦心してつくりあげたドローボールだった。危険もはらむが、スコアに爆発力を与えもするのがドローボール。ドローという猛獣を使いこなしてこそ、もう一歩先に進めるわけだ。

ついでに尾崎の得意なフェード成功例もその初日の1番でみることができる。スタートホールのティーショットをいきなり右の林へのプッシュ球。佐野木は「今回はダメかな」と思っていたそうだが、2打目を6番アイアンで強烈なスライスをかけグリーンオン、パーをセーブして自己ベストスコアのきっかけをつくった。結局、ドローもフェードも打てなければ、メジャーでは通用しないことを尾崎は証明した。通算、イーブンパーで35位タイだったが、メジャーでまた1つスキルを獲得して、未踏の100勝へ向けて始動することになった。

TEXT/Masanori Furukawa

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