ジャンボ尾崎に113勝をもたらすに至った「メタルドライバー」
尾崎は40歳の時、50勝目をあげた。そこから63勝(生涯勝利数113勝、73年以降ツアー94勝、その他18勝、海外1勝)積み上げるのだが、これは世界のスポーツシーンからしても空前絶後のこと。この勝利数に寄与しているのが、メタルドライバーというのが衆目の一致するところだろう。
1987年、テーラーメイドから発売されたメタルヘッドのドライバーをひっさげて、米国遠征した尾崎。マスターズでメタルを使う理由をこう語っている。
「米ツアー選手のコースマネージメントは昔と大きく変わった。彼らはティーショットであまり神経と集中力を使おうとしない。そこで神経を使ったら、デリケートなアプローチ、傾斜のきついグリーンでのパッティングの余力がなくなってしまう。だからティーショットはかなりの確率でフェアウェイキープしておきたい。メタルならラフに行きそうなボールをフェアウェイに残してくれる。それだけで神経をすり減らす度合いが違う」
その後1989年、尾崎自身も開発にたずさわった名器「J’Sメタル」が発売されることになるのだが、そのきっかけとなったのはマスターズの前に出場したロサンゼルス・オープンだった。
尾崎のクラブ契約先の開発担当者は、尾崎のキャディバッグの中に「テーラー・メタル」が入っているのを見逃さなかった。ドライバーは契約外とはいえ、みすみす他社のドライバーが使われるのを、指をくわえてみているわけにはいかない。急遽、メタルヘッドドライバーが開発されることが決まったのだが、それまでパーシモン一辺倒だったメーカーだけにそう簡単にいくわけはない。そこから試行錯誤の連続だった。
尾崎は「今のメタルを越えるものを造ってくれ。ヘッドは今より大きいほうがいい。またネック部からフェース面につながるラインが自然になってほしい」と要望した。あれだけクラシッククラブにこだわっていた尾崎の大変身だった。しかし名器といわれるクラシッククラブに精通したからこそ、ドライバー素材のメタルにたどりついたという見方もできる。
「僕のヘッドスピードだとパーシモンでは球離れが遅すぎる。メタルだとちょうどいいんだ」。パーシモンではあまりに速いヘッドスピードだと、スピン量を増やし、吹きあがってしまうという欠点があった。インパクトでフェースとボールの接点が長いせいであった。球離れの速いメタルは、その欠点を見事に消してしまった。
1990年のマスターズに「J’Sメタル」を携えて参加すると、欧米プロの間でちょっとしたブームとなった。それほど完成度の高いメタルヘッドだった。
MTN-Ⅲ(将司、健夫、直道3兄弟の頭文字をとった)アイアンも、開発に全面的に携わりロングセラーとなった。どれも尾崎のクラブへの探求心なくしては完成しえなかったであろう。
その後もドライバーへのこだわりは続き、1993年、日本オープンでは奥田靖己に敗れたが、その時の奥田がいったこと。「ジャンボさんは毎日、違うドライバーで打っていました。日本一を決める試合で、ですよ」と驚いていた。
尾崎は「どうしても納得できなくて……。でもぶっつけ本番で、4日間違うドライバーを使ったのは初めてかな」と苦笑。これとて、クラブへの飽くなき探求心といえるかもしれない。
1996年、通算100勝目となるダンロップフェニックスでの勝利。2日目以降、これまでのメタルからまだテスト段階のチタンドライバーに替えている。本番で使えてこそ本物だという尾崎の面目が躍如とするエピソードだ。
TEXT/Masanori Furukawa