1922年12月1日、大阪最初の屋内ゴルフ練習場が梅田に誕生。指導をしたのは日本のプロゴルファー第1号、福井覚冶だった。梅田という場所柄から会員数も多くなり、やがて「広々とした青芝のコースで心ゆくまでプレーがしたい」という機運が高まる。
当時のゴルフ事情は、夏は六甲山にある神戸GC、雪が降り神戸がクローズすると鳴尾GC、舞子CCに通うしかなかった。プレーを楽しむのは大半が居留外国人で、日本人ゴルファーといえば星部行則などの銀行家たちと神戸財界の南郷三郎を中心とした舞子CCの仲間など総勢50人ほどだった。
神戸GCは砂のティーイングエリアに砂のグリーン、鳴尾GCは海岸コースでアシが茂るラフに打ち込んでしまうと、たちまちロストになってしまう。そして丘陵地の舞子CCは高低差がかなりあり石が多く、クラブが傷だらけになることから「切られ与三郎」と呼ばれていた。大阪市内から神戸の六甲、舞子、鳴尾に行くには『朝は星を戴いて出て、夕は月を踏んで帰る』(廣岡久右衛門)と不便なことから、大阪の近郊にゴルフ場を建設しようとなり、廣岡久右衛門を中心に早速候補地探しが始められた。
廣岡は、欧米滞在の4年間にゴルフに親しんでいたことからゴルフ場建設には広大な面積が必要との認識があった。そのため地価の高い阪神間を避け京阪地区の国鉄沿線、阪急宝塚線に沿った場所に限定して、加島銀行の三宅重徳茨木支店長に候補地を探すように依頼。
23年三宅重徳より「候補地が見つかった」との連絡を受け検分すると、想定していたよりも遥かに好適な地形だったことから土地買収の交渉を開始することになった。
事業を成功に導くには資金の調達が必要になり、銀行界長老格の社交クラブ、晩霞楼倶楽部の八代則彦、加納友之助、今村幸男、加賀覚次郎、佐々木駒之助、野口弥三、乙部融など財界有力者の力を借りることになる。さらに大阪の実業家が集う大阪倶楽部の若手をまとめて23年7月7日に茨木CC設立準備の母体となる「サースデー倶楽部」を設立した。「社団法人茨木カンツリー倶楽部」が設立される5カ月前のことだった。
主な会員は山口吉郎兵衛、野村元五郎、和田久左衛門、村山長拳、加賀正太郎、野田吉兵衛、原田六郎、岩井豊治、右近権左衛門、黒川幸七、大林義雄など30数名。このため茨木CC設立当初の役員や委員は自然と老人の晩霞楼倶楽部と青年のサースデー倶楽部の会員から構成されていた。
まだ自前のコースがないことからプレーを楽しむのは六甲山の神戸GCだった。そのため会員たちが集い、くつろぐ場として神戸GCの7、8、9番ホールの真ん中に専用のハウスを建設した。茨木CCが完成した後も大いに利用されたが、第2次大戦の戦況悪化に伴い六甲行きは遠のき、世の中が平静を取り戻した52年に神戸GCが買い取り、現在は神戸GCのチェンバーとして利用されている。
サースデー倶楽部は茨木CC設立のため廣岡久右衛門が中心になって組織した倶楽部であり、そのためカップには「ファウンダーズカップ」と刻まれている。最初に名前が彫られているのは7月27日の大会で優勝した野田吉兵衛。野田は茨木CC設立趣意書に署名した倶楽部の発起人のひとりでもある。
どのような経緯でカップの行方がわからなくなり、なぜ今、81年の時を経て再び現れたのかは不明だが、先人たちの思いが刻まれた貴重なカップであることには間違いない。
撮影・文/吉川丈雄(特別編集委員)
協力/國江仙嗣(ゴルフ収集家)
協力&参考文献/武居振一(JGAミュージアム参与)、茨木の思い出(昭和33年廣岡久右衛門著)、茨木CC40年史、茨木CC
※週刊ゴルフダイジェスト2024年4月16日号「銀杯の優勝カップが見つかった」より