選考・文/吉川丈雄
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースのスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動
【岐阜・長良川カントリー俱楽部】上田治の“秀作”といえる個性的で変化に富んだコース
岐阜県にまだゴルフ場がなかった1953年、長良川河畔の県営グラウンドにゴルフ愛好家が数ホールのコースを手造り。1960年になると岐阜CCが完成し、長良川河畔のゴルファーたちはより本格的なコースを目指して市街地に近い場所を求め現在地7万坪を確保。コース設計は“剛の上田治”だった。
上田が岐阜県内で手掛けた岐阜関CC東Cは全長7306ヤードと長いが、長良川CCは4220ヤードとかなり短い。18ホールの内訳はパー4が8ホール、パー3は10ホールという組み合わせになり、敷地を最大限に生かした上田治の“秀作”だ。
【鳥取・鳥取ゴルフ俱楽部】「砂の惑星」のような砂だけのコースが原点
1952年、大火災に遭った鳥取市は、復興として鳥取砂丘ゴルフ場を発案。コースは砂丘の西の一画、東西16キロ、南北2キロの20万坪を借り受けた。砂だけなので造成費はゼロ。波打ち際はウォーターハザード、バンカーやグリーンは杭で区別し、グリーンは砂掻きでならしてパットをした。季節により吹く風の方向と強さに変化があり、コース自体も形が変わるという面白さがあった。
当時の料金はキャディフィー込みで300円。約10年続けられたが1964年、砂丘に隣接する鳥打山麓に移転。コースは建築家の間野貞吉による設計だった。
【山口・若山ゴルフクラブ 梶コース】炭鉱からゴルフ場へ海に浮かぶ手造りリンクス
海底炭田・梶鉱業所は年間15万1000トン出炭していた。ボタと呼ばれる坑内廃土は坑道周辺の遠浅に積み上げられ、やがて抗口と山陽町の海岸が地続きになり、その面積は約8万坪にもなった。ゴルフ好きだった片岡敏郎社長はゴルフ場建設を考え1971年に着工。設計は友人で茨木国際CCの沢田友春プロに依頼。芝は京都の種苗メーカーに赴き3種混合の洋芝の種を購入し、従業員が仕事の合間に種をまいた。
周囲を海に囲まれ強い風が吹き抜け、ボールが手前に戻ってくることも。ゴルフは自然との対峙だと教えてくれる。
【山口・毛利庭園ゴルフ俱楽部】毛利家の裏山に造られ瀬戸内海が眺望できた
戦後になると華族制度の解体、財産税の高率課税などで旧華族は窮地に陥っていった。36万石の藩主・毛利家とて同様で、東京高輪の本邸を物納し、防府の邸宅も物納の危機に見舞われていた。その時、地元財界人は邸宅の裏山にゴルフ場を造り、その収入で税金を納めることを提案。
井上誠一により9ホール、2900ヤード、パー35のコースが誕生したのは1952年。コース全域が「毛利の森」と呼ばれ、歴史を思わせる雰囲気が漂い、1975年に9ホールが増設されるとインコースとなり18ホールに。山口県最初のゴルフ場でもあった。
※2024年7月23日号「週刊ゴルフダイジェスト/隠れた宝石コース」より一部抜粋