「スピーダー」や「ベンタス」といえば、国内選手だけでなく、米ツアーのトップ選手たちが使用す
る、世界を代表するカーボンシャフト。そんなシャフトを開発・製造しているのが、藤倉コンポジット(フジクラシャフト)だ。そのメイン工場が福島県・南相馬市小高区にある。実はこの小高工場は、2011年3月の東日本大震災で被災していた。そして13年の時を経て、2024年10月に再稼働を果たした。震災当時、工場で働いていたという工場長の石部由美さんに話を聞いた。

左から藤倉コンポジット小高工場工場長石部由美さん、藤倉コンポジット小高工場製造リーダー庄子敏幸さん
「揺れは本当にすごかったです。地震が起きたらテーブルの下に隠れてくださいってよく聞くと思いますが、あの揺れではテーブルの下になんて隠れられません。テーブルが5~6m動くような大きな揺れでしたから。地震が起きたとき(14時46分発生)、うちの工場はちょうど休憩時間だったんです。だからみんな休憩室にいたので、すぐに外へ逃げることができました。普段から避難訓練をしていたおかげで迅速に行動できました。当時、スタッフは60~70名くらいいましたが、ケガ人もなく、みんな無事だったんです」

「机の下に隠れることさえできない大きな揺れでした」(石部さん)
三陸沖を震源とする巨大地震はマグニチュード9.0、最大震度7を記録。南相馬市でも震度6弱が観測された。そんな大地震で建物は壊れなかったのか?
小高工場の設計に携わったという、製造リーダーの庄子敏幸さんに聞くと、「小高工場は震災の前、2010年10月に稼働した新工場でした。工場を建てる際、地盤の調査は念入りに行いましたし、基礎工事もしっかりやりましたから、大地震でも構造的なダメージはほとんどありませんでした。ただ、東日本大震災は地震だけじゃありません。その後の影響のほうが、よほど大きかったですね」
大地震後、大津波が町を襲った。南相馬市の記録によると津波は9.3m以上だったという。

「まさか10m近い津波が来るなんて思わなかった」(石部さん)
「小高工場は海から3km以上離れています。海までのルートにはたくさん建物がありましたし、海岸線には防災林もあったので、海は見えなかったんです。だから津波が来るなんて想像もしていませんでした。そんなとき、同市内にあった原町工場から電話があって『津波が来るぞ』という情報をもらったんです。聞いていた津波は7~8mでしたが、襲ってきた津波は10m近く、何もかもが流さ
れてしまいました」(石部さん)
だが、津波による工場の被害はほぼなかったという。それについて庄子さんが説明してくれた。
「小高工場は海抜30mの高台にあります。もともとロボットテストフィールドとして10年以上前から使っていた場所です。原町工場の老朽化もあり、設備投資やスタッフの増員、事業拡大を考え、小高工場は造られました。私は震災時、ベトナムにいました。翌日、日本に帰国し、すぐにクルマで小高区まで入りましたが、津波の影響は国道6号線や常磐線にまで達していて、がれきや流木が散乱した道路は、まともに走れる状態ではなかったです」
東日本大震災は地震や津波だけではない。3月12日に福島第一原発で水素爆発が発生。半径20km圏内が避難区域となり、その後、長期にわたって立ち入り禁止や制限が行われることに。生産再開に
向け走り回っていた庄子さんは、「原発の事故後、小高工場は放射線量が高いエリアになり、立ち入り禁止区域になりました。とにかく生産再開が優先でしたから、小高工場の機械を原町工場に移しました。そのおかげで同年4月には生産が再開できました」

「放射線の影響で工場はすぐ立ち入り禁止に」(庄子さん)
「放射線は目に見えません。県から渡された線量計を持っていましたが、作業のときはずっと怖かったですね。余震も続いていたし、ここにはもう戻れないだろうなって覚悟しました」(石部さん)
後編に続く
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PHOTO/ Yasuo Masuda、藤倉コンポジット提供
THANKS /藤倉コンポジット小高工場
※週刊ゴルフダイジェスト3月25日号「13年ぶりの再稼働」より一部抜粋