上流階級出身のプロゴルファー「ヘンリー・コットン」とは
プロゴルファーのヘンリー・コットンは上流階級出身だった。20世紀初頭のイギリスには階級意識が明確にあり、多くの人がそれを意識して日々の生活を送っていた。

1937年全英OP、H・コットンとH・スミス
例えば、アマチュアゴルファーがスタートする時には「ミスター…」と名前の前にミスターを付けて呼ばれたが、プロゴルファーは名前だけだった。クラブハウスもアマチュア選手は入ることができたが、プロが建物に入ることは叶わなかった。プロの中のプロと称えられたアメリカのプロ、ウォルター・へーゲンは、全英オープン出場の際、ハウスに入って食事ができないことに反発し、ロールスロイスを借りてコースに通い、ホテルからハウスの前に食事を届けさせ、ピクニックさながら見せつけるように豪華な食事を楽しんだほど。
多くの人がヘンリーは将来、弁護士か医師になるのだろうと思っていた。だが周囲の思惑と異なり、ヘンリーはプロゴルファーの仕事を選んだ。
彼の周囲にいた人々は大いに困惑をした。当時、プロゴルファーは職人で労働者階級とされていたことから、どんなに優れた人物であったとしても「ミスター」からすれば「雇われ人」に過ぎずクラブハウスには入れなかった。だが、プロゴルファーといえどもヘンリーは上流階級の出身だからクラブハウスには自由に出入りでき、レストランやバーで優雅な時間を過ごすことができた。
プロゴルファーだったが、ヘンリーはロールスロイスを購入すると運転手を雇い悠然とゴルフ場に出入りした。教養もありフランス語、スペイン語、ポルトガル語を流暢に話し、絵も上手かった。

1970年台まで販売されていた「ダンロップ65」
1934年サンドイッチで行われた全英オープンの2日目に当時としては驚異的といえる65というスコアを記録。この快挙に対して後日、ダンロップは「ダンロップ65」というボールを発売し、1970年代まで製造され世界中で販売されてた。往年のゴルファーには懐かしいボールでもある。
育ちが良かったことからかヘンリーはメンタル的に弱いとされていた。重くのしかかるプレッシャーから最終日前半を40と叩いてしまった。後半なんとか39にして優勝を果たしたが、ヘンリーは後に「あの日、覚えているのはヒバリの鳴き声だけだった」と回想している。
サンドイッチでの全英オープンで、毎日パー3のホールに佇みヘンリーのプレーを観察していた老人がいたことに気付いていた。ヘンリーはその老人が誰なのか認識していた。最終日、そのホールにやって来るといつもいる老人の姿はなく気になった。
優勝をし、表彰式を終えるとヘンリーは優勝カップを抱えると、その老人が入院している病院へと急いだ。老人の病室に飛び込むと、ヘンリーは全英のカップをそっと老人に差し出した。

「バードングリップ」を考案した近代ゴルフの父、ハリー・バードン
老人はカップを手に取るとそっと抱きしめ静かに涙を流した。ヘンリーも涙が止まらなかった。その老人は、近代ゴルフの父、ハリー・バードンだった。
研究熱心なヘンリーは、多くのレッスン書を出版している。当時としては画期的といえるのが、映写機を買い自分のスウィングを撮影させ、スウィングにおける問題点を明確にして練習に励んだことだ。アメリカ遠征中には、多くの選手のスウィングを撮影し分析をしていた。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中