1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄がラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第6回目はオーバーラッピンググリップのルーツとなり、ハリー・バードンが考案したとされる「バードングリップ」について。

ゴルフのスウィングを近代化させたのは、ハリー・バードンだ!

画像: ハリー・バードンが考案したとされる「バードングリップ」

ハリー・バードンが考案したとされる「バードングリップ」

バードンはフランスから僅か30キロしか離れていないチャネル諸島(チャンネルとも表記する)の生まれ。このチャネル諸島はイギリスに所属しているものの、連合王国の構成ではなくイギリス王室の属領になっている。そのため外交などはイギリスが担当しているが、国内法は異なるという独特な存在だ。

チャネル諸島で最も人口の多いジャージー島グロウビルの庭師バードン家に1870年5月9日に生まれた。バードンは5人兄弟で、15歳頃には2人の姉や弟のトム、同級生らと50ヤード4ホールのコースを造り、バラの枝の手製クラブで遊んでいた。決して裕福な家庭ではなかったことから海岸で貝を採り、それを売ってもいた。

1887年、島にあるロイヤル・ジャージーGCで庭師の仕事をすることになった。20歳になると労働者倶楽部の会員になり、俱楽部が開催するトーナメントに参加すると優勝をしてしまった。 

その頃、プロゴルファーを目指してイギリス本土に行っていた弟トムが、スコットランドで行われた試合に優勝し、20ポンドを獲得したというニュースを聞くと「弟のトムが優勝できるのなら自分もできるはずだ」と思った。ちょうどその時、プロ兼グリーンキ-パーを探しているという話が舞い込み、ハリーは島を後にしてスタッドリーロイヤルGCに勤めた。

1893年の全英オープンは予選落ちをしてしまったが、1894年5位、1896年は強豪のジョン・H・テーラーをプレーオフで破り見事優勝を果たした。この優勝を機に、バードンは破竹ともいえる快進撃をすることになり、1898、1899、1903、1911、1914年と6回も全英オープンを制し、最も強いプロゴルファーと称えられるようになったが6回優勝という記録は未だに破られはいない。

画像: フックに悩み辿り着いた「バードングリップ」

フックに悩み辿り着いた「バードングリップ」

練習熱心なバードンは、どのようにすれば再現性の高い正確なショットが打てるのか、安定した飛距離を保てるのか、と研究にも熱を上げた。当時のグリップはテンフィンガーで、スウィングはクローズスタンスでフラットというのが主流だった。バードンはフックに悩まされた。試行錯誤を重ねた結果、辿り着いたのはオーバーラッピングのグリップ、オープンスタンス、そしてアップライトなスウィングで打つことだった。15歳の時、手製のクラブでボールを打っていた時、グリップはテンフィンガーでなくオーバーラッピングだったという説もある。

全英オープンの前に地区予選があり、この予選に通過すると本戦に出場することができる。ロンドンの郊外のサウスハーツGCで地区予選があるということで出かけて行った。内陸部のコースだから分類としてはパークランドコースという物だった。だが、ラフはかなり伸ばされ打ち込んでしまうと脱出に手こずることになる。歴史があるコースのクラブハウスは石造りで威厳があるがサウスハーツGCは近代的なクラブハウスだった。玄関に入り気が付いたのはハリー・バードンが考案したとされるバードングリップの塑像だった。恐らく実物大だと思われる大きさだった。

バードングリップ(オーバーラッピンググリップ)がもたらした功績は多大なものがあり、ゴルフのスウィングはこのグリップにより近代化された。

プロの試合は、距離も異なり、難易度も異なるコースで行われ、当然賞金額も異なる。それゆえに、誰が一番優れたプレーヤーなのかを定めるのは難しい。年間通じて最も少ないストロークだった選手が優れているとのことからその栄誉を表彰するのがバードントロフィーだ。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

グリップをイラストで解説!

第1回「ウィッカーバスケット」

第2回「ブラインドホール」

第3回「ケープ」

第4回「リンクス」

第5回「バンカー」

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