栄光のダブルイーグル

69年マスターズで撮影された、ジーン・サラゼン
1902年2月27日、ニューヨークのマンハッタンから東北へ20マイルにある小さな町ハリソンに暮らすイタリア移民のフェデリコ・サラセニに男の子が生まれ早速ユージンと名付けられた。フェデリコは腕の良い大工だったが、生涯を通じて英語を上手く話せず、どちらかといえば失意に満ちた人生だった。
ユージンは少しでも家計の助けにと、近くの駅で雑誌を売って働いた。8歳になると、キャディをすればもっと稼げると聞き、ラーチモントCCでキャディとして働くことになった。ある日、ショットをしたところ見事にグリーンに乗せることができ、その時の出来事が忘れられず、いつしかゴルフを職業にすると決めた。だが、頑固な父親は反対だった。学校に行かなくても大工なら何とか食べていけると信じていたからだ。
その父が破産してしまい、ユージンは工場で働くことになったが、肺炎にかかり長期療養を強いられてしまった。病床で「空気の良い所で働く」つまりプロゴルファーになることを決意した。ユージンという名前は強い印象を受けないと考えてジーン・サラゼンと改名をした。
プロゴルファーで稼げるようになったがある試合、遠かったが家から歩いてサラゼンを見に行くことにした父親は、コースには入らず丘の上からサラゼンを見つけたが、サラゼンはそのホールのグリーンでパットを外してしまった。それを見た父親は「下手だ」とサラゼンに会わず家に帰ってしまった。
1922年スコーキーCCで全米オープンに勝った後でも父親はゴルフに対して偏見を持ち「地道に働く」ことをサラゼンに勧めていた。
アシスタントプロからプロになった後でも、スコアを崩すことがあり、その原因はバンカーショットにあった。この問題を解決することにし、新しいクラブを考案することにした。飛行機が上昇するとき、水平尾翼を上げるのではなく下げることからヒントを得て、二ブリック(9番)の形状に工夫を加えるなどの試行錯誤を繰り返しサンドウェッジを考案することができた。
バンカーショットを成功させるのには、アウトサイドに振り上げボールの直後にヘッドを打ち込めばよいことも発見した。

若かりし頃のジーン・サラゼン
1935年第2回オーガスタナショナルインビテーション(後のマスターズ)に出場したサラゼン。最終日、首位に浮上したクレイグ・ウッドとは2打差だった15番ホールのティーショットは軽くフックが掛かりかなりの距離を稼ぐことができた。ボールに向かっている時、18番ホールから大歓声が聞こえてきた。首位を行くクレイグ・ウッドがバーディにしたからだとわかった。
その時点で、誰もがクレイグ・ウッドの勝利を信じ、新聞記者のインタビューが始められ、大会委員会は優勝賞金の小切手を用意した。
15番の2打目で、サラゼンはキャディの“ストーブパイプ”に「勝つために何打必要か」と聞いた。キャディは「4つの3が必要(※)」と答えた。
※15番はパー5、16番はパー3、17番と18番はパー4なので、4つ3を重ねると4アンダーになる
2打目の距離は235ヤード、4番ウッドを手にすると低い弾道を描いてボールはピン方向へと飛翔していった。大きな歓声が上がった。チップインしたのだ。ダブルイーグル(アルバトロス)の2だ。残り16、17、18番をパーとして首位のクレイグ・ウッドの通算282ストロークに並び、勝負は月曜日の36ホールのプレーオフに持ち込まれた。
プレーオフは、サラゼン36・35、36・37の144。一方クレイグ・ウッドは36・39、40・34で149、サラゼンが5打差をつけて見事逆転優勝となった。

偉業を称えて造られた「サラゼンブリッジ」
最終日15番のダブルイーグルは、ゴルフ史においても稀にみる劇的な出来事で、伝説的でもあり、この偉業を称えて15番ホールの池の左側にサラゼンブリッジが造られた。