ヒルビリーと呼ばれたサム・スニード

サム・スニード/1912年5月27日生まれ
バージニア州とウエストバージニア州の境に横たわるアパラチア山脈系のパッククリーク丘陵、人口僅か400人という小さな町アッシュウッドで1912年5月27日にサム・スニードは生まれた。
父ハリーはオランダ系ドイツ人。サムは母ローラにとって6番目で47歳のときの子供だった。父ハリーは近くにあったホテルでボイラーマンとして働き、小さいながら牧場も所有していた。
大家族だったが暮らすにはまずまずだった。12歳上の兄ホーマーはサッカー、水泳、ボクシング、ゴルフなどに才能がありプロゴルファーになったほどだ。少年時代のサムはモミジの木をクラブ形状に削りゴルフの真似事をして遊んでいたが、本物のクラブを手に入れると本格的にゴルフの練習を始めた。
高校時代のサムはスポーツを得意とし、アメリカンフットボール、野球、テニス、なかでも短距離走は100ヤードを10秒で走り、大学のスカウト対象になるほどだった。時代は大恐慌で、近くのホームステッドのコースでキャディのバイトをすることになり1ラウンド50セント稼ぐことができた。
サムは卒業後にファストフード店で働き月20ドルの給料を得た。だが数カ月後に月25ドルでプロシップの仕事が見つかると迷わず転職をし、その後カスケードGCにプロ見習いで入りレッスン料を稼ぐことができた。
30年ホームステッドリゾート、35年グリーンブライヤーリゾートに移籍。
36年かつての職場だったカスケードオープンに出場したサムは3位に入り賞金360ドルを手にすることができた。これを契機に、バージニア州にあるホワイトサルファースプリングスGCに食事、部屋付で月45ドルというかなりの好条件で迎えられた。
ツアーに参戦したのは37年からで、この年に5勝を挙げ注目された。しかも65年までの間、実に82勝もしている。

美しいスウィングとは別に、話題となった「サイドサドルスタイル」パッティング方法
なかでも流れるような美しいスウィングが話題になり「生まれながらのゴルファー」と評されるようになった。美しいスウィングはどのようにして生まれたのかという質問に対して「裸足でゴルフをすればいいのさ」と答えている。
事実、42年のマスターズ初日に裸足でプレーをして68のスコアを記録して「裸足」の有用性を証明してみせたが、ジーン・サラゼンから「マスターズはマスターたちが持てる技を競うところで裸足でプレーをするところではないんだ。トム・ソーヤやハックルベリー・フィンじゃあるまいし」とかなり厳しく咎められてしまった。この事件と、サムは稼いだ賞金を空き缶に入れ庭に埋めて保管をしていたという話も面白可笑しく伝わり、バージニアの“ヒルビリー”(南部未開拓地の人のこと)として有名になった。アメリカ人が好むサクセスストーリーといえるからだ。
38年には9勝を挙げて早くも賞金王となった。強かったサムだったが、なぜか全米オープンに勝つことができなかった。同年、オークランドヒルズCCの全米オープンで最終日71、通算5アンダーの283。なかでも最終18番では537ヤードを2オンさせイーグルという快挙だった。誰もがサムの優勝を信じ、サムも記者たちのインタビューに答えていたが、後からプレーしていたラルフ・ガルダ―ルが通算7アンダーで競技終了。サムの喜びは一瞬で打ち砕かれてしまい「稼げずにプロを辞めてセールスマンしていたガルダ―ルに敗れてしまうとは」と嘆いた。
サムの趣味に音楽があり、トランペット奏者としても一流だった。
「私は音楽が好きだ。正しいスウィングのテンポはワルツの3拍子なんだよ。アマチュアはあまりにも早くボールを打ちたがる」
「ゴルフのプレーは食事をするようなもの」でごく自然であり「最も悪いことは考えすぎることだ」と語り、ツアーで長く活躍できた秘密を問われると「金だよ」と答えた。
この時代に活躍したベン・ホーガン、バイロン・ネルソンと共に同年生まれで、彼らは互いをライバルとして意識し多くの勝利数を重ねた。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中