
浅地洋佑
杉並学院高校時代からトップアマとしてツアーで活躍し、2011年に18歳でプロ入り。翌年には19歳でシード権獲得。19年ツアー初優勝。通算4勝。東京都出身の32歳
大幅な改造のなかでも右ひじが重要だった

1990年代にデビッド・レッドベターが売り出し、ニック・プライスも使っていたことで人気に火がついた練習器具の復刻版「ライトアングル」
不調の前触れは何もなかったという。21年の11月に3勝目を挙げ、好調のまま賞金ランク14位でシーズンを終えた。ところがつかの間の休養の後に練習を開始すると、アイアンが全く当たらなくなっていた。
「いきなり当たらなくなったんです。トップしたりダフったり、アマチュアみたいなミスが1年間ずっと続きました。たまにいいショットが出る試合もあったけど、それが続かない。それまでは年に1回出るかどうかだったシャンクも毎試合出るんです。セカンドショットでフェアウェイど真ん中からシャンクしてOBとかよくありました」
苦しんだ22年は24試合出場して予選通過がたったの9回で、賞金ランクは86位まで落ちてしまった。
「1年間自分なりにスウィングを直そうといろいろとやったんですけどダメで、次の年は考えることをやめたんです。ただ上げて下ろすだけにしたら、なんとか当たってグリーンには乗るになりました」
その23年は賞金ランク48位で終え、シード権は獲得できたが、まだ気持ち悪さは続いていた。そこで昨年の1月にジュニア時代に教わっていた植村啓太コーチに連絡を取ったという。
「大きなミスは減ったけど感覚はまだスッキリしないし、30歳になったというのもあってこのままではダメだと思って啓太さんに教わることにしました」
植村コーチとともにスウィングを大幅に変えることになったが、最初は違和感が強かった。
「スウィングのバランスが崩れていたので、最初は軸を整えるために下半身から修正しました。ドリルとかやるんですけど、気持ち悪くて振れなくて『これで本当に良くなるのかな』って半信半疑の部分がありました。でも信じて続けていたら下半身の動きが良くなってきて、次に啓太さんに『右ひじの角度が気になるからそこも直そう』って言われました。右腕にライトアングルを着けて打ち始めたんです。けど、これも最初はどうやって振るのって感じでした」

「半信半疑だったけど信じてつづけたから結果が出た」
そんな中で6月に左手首を負傷してしまうが、それがまさに"怪我の功名"となった。
「試合は痛み止めの薬とテーピングでなんとかフルショットしていましたけど、練習では全くフルショットしない期間がかなりありました。右手1本の片手打ちばかりやっていたら、右手の使い方がどんどん良くなっていったんです。“ライトアングル”を着けてもスムーズにスウィングできるようになって、9月頃からショットも安定しました。いまでもずっと使っているから、最近プロたちからどこで買ったのか聞かれるんですよ(笑)」
アイアンの不調は突然始まり、2年以上続いた

21年に3勝目を挙げ、好調のままシーズンを終えるもオフに突然スランプが始まる。22年は予選通過率37%で賞金シードを失う(19年の複数回優勝によってその後3年間の出場権は保持)。23年は「考えることをやめ」なんとかシード権獲得。24年からスウィング改造に着手し、今年5月に復活優勝。
構成/重富由美子 写真/有原裕晶
協力/チェリーヒルズGC
※月刊ゴルフダイジェスト9月号「浅地洋佑“復活物語”」より
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みんなのゴルフダイジェストでは、浅地洋佑の苦悩、怪我後の取り組みなどをお届けした。浅地が解説する右肘の重要性や、実際にライトアングルを装着した時の様子など、月刊ゴルフダイジェストでは7ページに渡ってお届けしている。続きは月刊ゴルフダイジェスト9月号、Myゴルフダイジェストにて掲載中!