
日光の象徴である男体山を眺望しながらのプレーになる
「自然を壊すようなコース造りは、もうゴルフでもなんでもない」(設計家・井上誠一)
日光CCの建設に当たり、いくつかの候補地を検分した井上誠一は「日光町周辺にはコースとしての適地が少ない」としたが、最後に検分したのは大谷川の河川敷だった。その場所は他の候補地に対して「植生などの風致に優れ、地形も変化に富んでいる」ことから「工夫さえすれば十分建設が可能と判断してここを用地と選定した」と書き残している。

No.7・435Y・P4。打ち下ろしのホールでフェアウェイは広い。フェアウェイは左傾斜。グリーン中央に向かってほぼ真っすぐなライン。左上の図は井上誠一による日光CCの7番ホールグリーンの設計図
だが河川敷だったことから井上の計画書には「数多くの礫が所在することと、ほとんどすべての地域が転石で覆われ極薄い表土が堆積しているに過ぎない場所で、洪水時には冠水の危険がある」とも記述している。
コースはハウスを中央にレイアウトされ、アウト、インでは約60メートルの高低差があり「この60メートルの高低差は大体平均的に分布しているので局地的に険しい傾斜地もなく平坦でもなく望ましい地形」と井上は評価した。

No.18・424Y・P4。男体山に向かって8.3メートルの真っすぐな打ち上げホール。フェアウェイ左にはクロスバンカーがある。フェアウェイ右側の平坦な部分を狙っていくのが正解
大小の石を取り除く作業は多くの労を要したが、客土され芝が張られたフェアウェイは見事といえる出来栄えで、赤松とのコントラストは〝一幅の絵〞と表現したくなるほど美しい。
自然の地形を壊すことなく18ホールを見事大地に刻まれた日光CCは、熱き戦いを静かに待ち受ける。
日光カンツリー倶楽部を知る①
「公共事業で造られたゴルフ場」

昭和29年1月に実施された6番ホールでの伐根作業の様子
1955年に開場した日光CCは、栃木県をはじめとする地元自治体の支援で造られた。当時の小平重吉栃木県知事と日光市出身の三菱財閥・加藤武男翁が、1952年の夏に日光金谷ホテルで会談(いわゆる日光会談)を開き倶楽部建設の決定を下した。小平知事は俱楽部設立趣旨を「世界に名を知られた日光に、観光施設としてのゴルフ場を造る」と記している。
日光カンツリー倶楽部を知る②
「2%勾配」というマジック

平坦に見えるが“知覚できない傾斜”があるのが日光カンツリー倶楽部の特徴
100cmあたり2cmの高低差がある勾配のことを建築用語で「2%勾配」という。人間は感覚的に2%までの傾斜は平らに見えるので、駐車場や側溝の造成において重視される指標となっている。日光CCの敷地は東西に約3km、高低差は約60m、つまり男体山から大谷川に沿って「2%勾配」となって下っている、この“知覚できない傾斜”がプレーヤーに様々な錯覚を引き起こす。
日光カンツリー倶楽部を知る③
ハザードを省くことで造った「だまし絵」

バンカーはわずか36個、池やクリークもない
日光CCにはバンカーはわずか36個、池やクリークもない。だが、井上誠一は障害となる人工物をむやみに造らず、本来の地形や起伏を生かした「だまし絵」の手法で各ホールに魔法をかけた。ハザードという「道しるべ」をあえて省くことで、むしろプレーヤーの方向感覚や距離感を惑わせていく。つまりコースデザイン全体の構成力で戦略性を高めていった。
日光カンツリー倶楽部を知る④
世界標準の「難解グリーン」

グリーンが難しいのも特徴のひとつ
日光CCが開場した当時、日本では受けグリーン&2グリーンがほとんどだった。だが、井上誠一は世界標準の1グリーンを採用し、さらに奥下がり、2段~3段形状などの多彩なバリエーションを造り、そこに男体山からの傾斜から生ずる強い順目・逆目という要素が加味され難解なグリーンとなっている。井上の設計図にはグリーン周辺の形状など、細部までち密に描かれている。
文・撮影/吉川丈雄(特別編集委員)
協力・資料提供/日光カンツリー倶楽部
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