1994年、24歳で全米オープンチャンピオンに輝いたアーニー・エルスはその前年国内ツアーのダンロップフェニックスで優勝している。その勝利が「世界の足がかりになった」と当時本人が語っていた。その頃から来日するたび気になる選手がいた。それは先日、78歳でこの世を去ったジャンボ尾崎だった。

キャディバッグが並ぶマスター室前でエルスが誰かのクラブを覗いていた。

声をかけると「ジャンボがどんなウェポン(武器)を持っているのかチェックしているんだ」と笑ったビッグイージーことエルス。およそ30年前のできごとだからジャンボは40代後半。

「あの年であれだけ飛ばすんだからね。本当に凄い」(エルス)。年上のライバルがどんなクラブを使っているのか興味津々だった。

画像: 尾崎将司(左)とアーニー・エルス(右)(写真は1995年の全日空オープン)

尾崎将司(左)とアーニー・エルス(右)(写真は1995年の全日空オープン)

90年代ジャンボは7度賞金王に輝いている。エルスが全米オープンを制覇した94年から98年まで5年連続賞金王のタイトルを獲得しその間28勝を挙げている。

その時代ジャンボに一矢報うべく立ち上がったのが外国勢。後にメジャーチャンピオン(04年全英オープン制覇)になるトッド・ハミルトンや98年の全英オープンでマーク・オメーラとプレーオフを戦い2位になったブライアン・ワッツらだ。

国内ツアー12勝のワッツは94年のKBCオーガスタやフィリップモリス選手権でジャンボを破って優勝し、賞金ランクもジャンボに次ぐ2位に入っている。

97年1月に満50歳の誕生日を迎えたジャンボの後塵を拝していたワッツやハミルトンは常に「ジャンボがアメリカのシニアツアーに行けば向こうの連中は絶対に勝てない。コテンパンだよ。楽々(シニアの)賞金王になれるのに」と残念がっていた。

豪放磊落に見えるジャンボだが実は海外が苦手だった。選手が集まるクラブハウスのロッカーやレストランも避けていた。

マスターズに出るときは専属シェフを同行し定宿の自室で食事をとり外に出ることがなかった。

ホテルとコースの往復以外は部屋に閉じこもり姿を見せないジャンボを地元オーガスタクロニカル紙は「日本のスーパースターはミステリー」と報じたこともある。

2011年のゴルフ殿堂入りセレモニーで本人がこう語っていた。

「唯一の心残りがあるとすればもっと海外でプレーをすればよかったということ。しかし私は日本のゴルフに人生を捧げて来ました」

国内ツアー94勝のジャンボがもし海外でもっとプレーをしていれば世界的な知名度は上がっていたに違いない。

だがメジャーチャンピオンのエルスやハミルトンは全盛期のジャンボの凄さを忘れることはないだろう。

日本のゴルフに人生を捧げたジャンボさん、心よりご冥福をお祈りします。

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