1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄が、ラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第56回目は、1960年代の米ツアーで絶大な人気を誇ったプロゴルファー、トニー・レマ(アンソニー・デビッド・レマ)の数奇な半生と悲劇的な最期について。

貧困を乗り越え開花した才能。名スポンサー・ローリーとの出会い

画像: 昭和38年8月、川奈富士コースにて(椅子に座っている右側がトニー・レマ)

昭和38年8月、川奈富士コースにて(椅子に座っている右側がトニー・レマ)

1960年代に「シャンパン・トニー」と呼ばれた人気ツアープロがいた。その時代、絶大な人気を誇っていたのは、攻撃的なプレーを身上とし、どこからでもピンを狙っていくアーノルド・パーマーであった。後年、ジョニー・ミラーは「パーマーの次に人気があるのは間違いなくシャンパン・トニーだった」と語っている。

ツアープロの仲間が「人気者」と語るシャンパン・トニーとは、一体どんな選手だったのだろうか。

本名はアンソニー・デビッド・レマ。カリフォルニア州オークランドで生まれた。アンソニーが3歳の時に父親が肺炎で亡くなり、母親は生活保護を受けながら4人の子供を育てる苦労を味わった。

レイクキャボット市営ゴルフ場でキャディとして家計を助けたアンソニーは、このコースでゴルフを覚えることになる。アンソニーに類まれな才能があったことから、コーチのルシウス・ベイマンからはスウィングを、警察官のラルフ・ホールからは戦略性を、そしてプロのディック・フライらからはスクエアスタンスなどの基本を学んでいった。

17歳で米海兵隊に入隊し、1955年に除隊。サンフランシスコCCでアシスタントプロとして働き始めるが、コースの会員にはエディ・ローリーがいた。エディは、1913年の全米オープンでフランシス・ウィメットのキャディを務めた人物であり、のちにビジネスで成功して多くの若手選手を育てた名スポンサーとしても知られる。エディはアンソニーの才能を見抜き、週給200ドルの支給と引き換えに賞金の3分の1を受け取るという契約を結び、スポンサーとなった。

画像: フランシス・ウィメット(キャディ左側)とエディ・ローリー(キャディ)の物語は、映画にもなっている(邦題『グレイテスト・ゲーム』)

フランシス・ウィメット(キャディ左側)とエディ・ローリー(キャディ)の物語は、映画にもなっている(邦題『グレイテスト・ゲーム』)

1957年にPGAツアーへ参戦すると、インペリアル・バレー・オープンでプレーオフを制し優勝。1962年のオレンジカウンティ・オープンで首位タイに並んだ際、翌日のプレーオフを前に記者団へ「明日勝ったらシャンパンをごちそうするよ」と宣言した。この出来事をきっかけに、彼は“シャンパン・トニー”という愛称で親しまれるようになったのである。

その後、ツアー通算11勝を挙げ、1963〜66年には出場試合の半数以上でトップ10に入るという驚異的な活躍を見せた。ライダーカップにも2度選出され、チームの優勝に大きく貢献している。その明るい人柄と端正なルックスから、ツアーでの人気は絶大なものがあった。

1964年にはビング・クロスビーでの優勝を含むシーズン5勝を挙げ、全英オープンに出場。当時、出場を見送ったアーノルド・パーマーの専属キャディ、ティップ・アンダーソンとコンビを組むと、2位のジャック・ニクラスに5打差をつける快勝を収め、見事メジャータイトルを手にした。

しかし、悲劇は突然訪れる。1966年、全米プロ終了後にエキシビション開催地へ向かうためチャーターした小型機が、着陸寸前に燃料不足でコントロールを失い墜落。シカゴ近郊のランシング・スポーツマンズ・クラブの7番パー3、グリーン左側のウォーターハザードに消えた。

人気絶頂期に起きたこの不幸な事故は、ツアー仲間やファンに深い悲しみを与え、今もなお惜しまれ続けている。

「人にゴルフを教えるのは、文明人にジャングルでの生き方を教育するより難しいことだ」
—— トニー・レマ

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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