1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材し、現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員として活動する吉川丈雄が、ラウンド中に話題になる「ゴルフの知識」を綴るコラム。第65回目は、「世界一のボールストライカー」と称されながらも、あまりに純粋で変則的だったために米ツアーを追われた悲運の天才ゴルファー、モー・ノーマンの生涯について。

錆びた5番アイアンが唯一の友だったノーマン

画像: 数々の記録を持つモー・ノーマン

数々の記録を持つモー・ノーマン

40コース以上でコースレコードを樹立、ホールインワン17回、最少スコア59を3回と驚きの記録を持つプロゴルファーがいた。素晴らしい実績だがアメリカPGAツアーでは未勝利という不思議さ。ところが多くのツアー選手が注目した憧れの選手だった。

その男の名はモー・ノーマン(Murray Norman/1929~2004)。

1929年にカナダのオンタリオ州キッチナーで生まれ、5歳の時に事故にあい重傷を負ってしまった。幸い怪我は治ったが、顔面は歪み、言語障害が残ってしまった。内気な性格ゆえに友人は少なく、唯一心を許したのは錆が浮き出た古い5番アイアンだった。黙々と5番アイアンで球を打ち続けた結果、自分が狙った場所にボールを打つことができることに気づき、さらに練習を重ねることになった。

20歳の時、カナダ各地で行われるアマチュア競技に出場し始めたが、あまりにも変則的なスウィングのため多くの選手やギャラリーの失笑の的になってしまった。だが、同時に何球打ってもほぼ同じエリアに着弾する正確無比なモーのショットが注目されたのは事実だ。自己流の変則スウィングながら正確なショットを打つ選手がいると話題になり、61という驚異的ともいえるスコアを年間4回、試合に出たコースのコースレコードを9回塗り替え、アマチュア競技ながら17回も優勝を果たした。元来シャイな性格ゆえに優勝しても上手くスピーチができなかったが、ゴルフに対する情熱はだれにも負けなかった。

トム・ワトソンからも認められるほどの実力だった

55、56年カナディアンアマチュア選手権を2連覇、26歳の時だった。その優勝のおかげで4月5~8日にアメリカで行われる大会にカナダのアマチュア資格で出場することができた。

大会の名はマスターズ。

モーはカナダ代表のアマチュア選手として名誉あるマスターズに招待されるほどまでに成長していたわけだ。初日は75とやや出遅れたが決して悪いスコアではなかった。ラウンド後に練習場でボールを打ち続けた。2日目は78と叩いてしまったが、2日間で153は残りの2日間を頑張れば上位に入ることができるスコアだった。ちなみに、その試合でベストアマになったジーン・リトラー(後にツアープロになり29勝)は146で、3日目には79と叩いているが最終的に12位タイだった。

練習場でボールを打っていると当時のトップ選手だったサム・スニードに声をかけられ、適切なアドバイスを受けることができた。励まされたモーは嬉しくなりさらに4時間ほど練習を続けた結果、クラブを握ることができないほど手は血まみれになってしまった。3日目は前半の9ホールをプレーして棄権。猛練習の結果、手が痛みそれ以上競技を続けることができなかったからだ。

モーは早打ちだった。59年ロサンゼルスオープンに出場したが、同伴選手が打ち終えるまでフェアウェイに寝そべったりしていたが、競技終了後にアメリカの選手から「ふざけたことをするな」と叱責を受けてしまった。これが原因でアメリカツーアーから撤退することになってしまったが、カナダのツアーではモーの“寝そべり”はギャラリーに受けていたのだ。

79年、50歳を迎えシニア競技に出場すると7年連続でカナダシニアに優勝、9年目には2位に8打差をつけて8度目の優勝を果たしている。ゴルフ以外に興味のなかったモーは月400ドルでモーテル住まいだったが、95年になるとタイトリストと生涯月5000ドルという契約をすることができた。

ケン・ベンチュリーは正確ゆえに「パイプラインモー」、リー・トレビノは「世界一のボールストライカー」そしてトム・ワトソンは「モー・ノーマンが一番いい球を打てる選手」と称えた。

文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中

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