パイオニアの旅立ち—日本初の「聴覚障害ゴルファー」が遺した足跡
日本初の聴覚障害を持つティーチングプロ、佐藤裕児プロが7月31日に57歳で永眠されました。亡くなる直前まで、愛息子・大雅くんの試合(ゴルフダイジェストジュニアカップ・東名CC)を見に行くことを楽しみにしていた佐藤プロ。しかし、その夢は叶いませんでした。
「初日に、桃園コースのスタートホールの距離のあるパー3でボギーを打ってしまって。でも、次のパー5でイーグルを取れたんです。3打目、残り99ヤードを打って、グリーンに行ったらボールが見つからなくて。それでカップの中を見たらありました。エグかったです!」

GDジュニアの大雅くん。「後半で両足がつっちゃったんですけど、やめられなくて……やっぱり安定したショットが打てなかった」と言うも、予選は突破し本選に出場しました
「天国のお父さんが入れてくれたのかもしれないね」と言うと、小さくうなずく大雅くんです。
ゴルフは小2で始め、もちろんコーチは父でした。一番覚えている“教え”は、「練習のときにまず素振りをして、そのあと全力で振る」というものだそう。“飛ばし屋”だった佐藤プロらしい教えです。
「ケンカは覚えてないくらいしました。なんだか、ケンカが懐かしいです」
現在中2の大雅くんのベストスコアは69が2回、飛距離もどんどん伸びており現在250~260ヤード。
「前はドライバーが得意だったんですけど、最近曲がりすぎて面白くなくなってきました」
飛ばし屋が一度は通る道かもしれません。
将来の目標はプロゴルファーになって「優勝したいです」。
生前、佐藤プロは、ツアーで優勝することを夢に掲げていました。そして、自分の夢の実現が、デフアスリートの増加につながるとも考えていたのです。
高校はゴルフ部のあるところに行って団体戦に出てみたいという大雅くん。父の夢をつないで、さらに広がっていく自分の夢を実現していく姿を、父はずっと見守っているのでしょう。
「最後にゴルフをしたのは6月1日。大雅と僕と3人で18ホール回りました」と語るのは実兄・康孝さんです。
「痛みに波があって、痛くないときは散歩に連れて行ったりしていましたが、状態がいいときにゴルフに行ったのです。上がり3ホールくらいはとてもきつそうでしたが、『頑張る』と言って完走です。200ヤードくらいしか飛ばなくなったので悔しそうでしたけど、チップインを2回決めて、技は衰えていないなと。曲げたときに木の根っこについてしまったボールでも、簡単に出したりしない。最後まで譲れないものがありました」

18年の週刊GD取材時、佐藤プロは「曲がっても、曲がっても、ゴルフ、飽きません」と笑っていました。「ゴルフはアップダウンがあり人生と同じです。でも、上手くいくと嬉しいものです」
衰えていないのは、ゴルフに対する情熱だったのでしょう。
「大雅にも厳しくて、左に池があるパー4で、大雅が仕切り直しをして打って池に入れてしまいました。そのときは怒っていましたね。ジュニアチームの子たちも含めて、『褒めたほうが伸びる』と僕が言ったら、すこしやさしくなったみたいで。皆に『どうしたんだろう』と言われていたみたいですけれど。やはり最後は、息子に対する強い思いが出てきたのだと思います」
大雅という名前はもちろん、あのタイガー・ウッズからきています、子どもが男の子だとわかったとき、兄が「苗字が佐藤だから(F1レーサーの)琢磨はどうだ、いや、ナダルとかメッシは?」と言ったら、「ふざけてる!」と怒ったのだそう。そして名付けたのが「大雅」。佐藤プロはタイガー・ウッズが大好きで憧れていました。
「息子の成長を見るのを楽しみにしていたし、本人もまだまだシニアツアーなどへのチャレンジを諦めていなかった。でも、夢を大雅に託したんですよね」
兄、康孝さんは、弟にずっと寄り添い支えてきました。自我を殺してきたことも多くあったと思います。
「一般的な家庭とは違う。徹底した教育方針もあり、弟の自立が最優先の家庭環境でした。でも、他の人では関われないことも多くて。今は、本当に弟にいろいろな経験をさせてもらったと思っています。僕の価値観の原石です。厳しいことも多かったですけど、素直に『ありがとう』と言いたい。今、振り返って思うと、裕児にはプロゴルファーになりたいという思いが原点にあり、いろいろな困難が都度あったと思いますけど、いつもその壁を超えてきた。当時は日本にはデフゴルフもあまり知られていなくて、『プロでなくてもいいんじゃないか』とも言われたけど、職業としてやるにはプロを目指すしかなかったのです。でも、いろいろな方のサポートもあって夢を実現してきました」
途切れぬバトンと進化する「障害者ゴルフ」
近年、さまざまなところで見かける言葉、「バリアフリー」「インクルーシブ」な世界を実現しようと、いち早く行動していた佐藤プロ。そして康孝さんと兄弟でずっと、社会にある壁を崩していこうと活動してきたのです。

佐藤兄弟。ぶつかり合いながら、支え合いながら、ともに歩んできました。2人が見つづけているのは、バリアフリーでインクルーシブな社会の実現です
「裕児とスナッグゴルフのプロジェクトを行ったり、コロナ禍までは7年間、ろう学校で外部指導員をしていました。ドッジボールや冬場には月1回のテニスやスナッグゴルフを。今は横浜市金沢の放課後等デイサービス事業所で月1回くらい運動療育を行っています。今後は個人でも事業所を立ち上げたいですね」
地道な活動こそが、新しい社会を形成していきます。そして今、康孝さんは運動療育に関する絵本を準備しています。兄弟の夢の1つの集大成と言っていいものになりそうです。
「タイトルは今、すごく考えているのですけど、サブタイトルは決めていて『君の考えも僕の考えも大事』です。他者理解に関するもので、絵本にしたほうが多くの方に伝わると思いました。そもそも自分の気持ちと向き合わないと他者は理解できません。僕の原体験を含めて、ゴルフボールをキャラクターにした絵本になります。ワークショップ等で導入していただくように活動していく予定です」
こちらの夢も、確かにつながっていくのです。

「日本初のデフゴルファーのプロとして、障害の有無を越えて、ゴルフの魅力を伝え、多くの人々とに希望を届け寄り添い続けたプロに心より敬意を表します。スポーツ界における多様性と可能性を切り開いてきたその情熱的な姿は英会陰に私たちの記憶に残るものです」(衆議院議員オリンピック委員会会長、橋本聖子さんからの弔電より)
PHOTO/Ypshikazu Watabe


