
「山田パター」のパター職人・山田透氏
山田氏は1955年、山形県南陽市赤湯の温泉町で4人兄妹の長男として生まれる。実家はクルマの修理工場だった。そのころのことを妹の優子さんは「兄はおとなしく、心根のやさしい人でね。クルマの下に入ってネジを締めていたことを思い起こします」と話してくれた。
実家の自動車修理工場が突如としてエレキギター工場に転身するのは山田氏が11歳のとき。1966年、ビートルズ来日でエレキギターブームとなり、知人のつてで父親が一念発起したという。山田氏も高校卒業後、ジャズギターに夢中になり、1979年にルーツ音楽院へ入学しその後渡米。ここでゴルフと出合う。1年でHC1となり、ミニツアーへ参加も。
そして運命的出合いを果たす。ロサンゼルスのショップで手にした「T・P・MILLS」に衝撃を受けたのだ。「陶器のように滑らかで真っ黒、こんな美しいパターがあるのか。自分で作らなければ。その瞬間、パター作りの世界に飛び込んだ」と。
33歳で帰国。レッスンプロとして活動する一方、デザイナー、プログラマーとして山形県内に「山田パター工房」を創業した。山田氏が非凡だったのはデザイン、プログラミング、加工、刃物成形、金型作り、知的所有権申請、すべて独学で成し遂げたことだ。
再び優子さん。「あのおとなしくて優しかった兄が人にも自分にも厳しくなっていたのには驚きました」と。すべてを1人でこなすためには自分を律し、周りにもそれを求めた……。むべなるかな。
栄光は一挙に押し寄せる。2012年、豪州のライン・ギブソンが、山田パターで55というギネス記録を打ち立てたことだ。それを知ったゴルフ好きで知られるアメリカの当時のオバマ大統領が山田パターを所望し、日本の安倍首相が日米首脳会談の折にプレゼントした「パター外交」はニュースになった。それ以後、1000本を超す注文が殺到し、一躍時の人となったが「有頂天になってマスコミに出たら、地味だが良い仕事をするというポリシーが崩れる」。驕りをよしとせぬ含羞の人でもあった。
「単に名器を作るだけでなく、打法まで提示し練習器具まで編み出した。2メートルを完璧に入れるスクエア・トゥ・スクエアのストロークがかなうパターとは? を追求し続けた人です」とクラブアナリストの近藤廣氏。
2013年、小社アワード特別賞受賞。自分の信念を貫き通した幸福な人生ではなかったろうか。
合掌(特別編集委員 古川正則)
※週刊ゴルフダイジェスト2026年11月3日号「バック9」より
