『あしたのジョー』など数々の傑作を生み出し、文化勲章を受章した漫画家・ちばてつやさんが、87歳でその生涯を閉じました。本記事は、日本中にスポーツの熱狂を伝えた氏の功績を偲び、2016年に「Choice」誌で収録されたロングインタビューを特別再録するものです。凄惨な満州引き揚げ体験がもたらした死生観や青年期の苦悩から、名作『あした天気になあれ』誕生の裏側、そして深いゴルフ愛まで。読者の人生に寄り添い続けたレジェンドが遺したあたたかな肉声を、全3回の完全版でお届けします。【全3回中1回】
画像: (掲載当時)1939年東京生まれの76歳。漫画家。41年に旧満州・奉天に渡り、終戦の翌年引揚。1950年、友人の作る漫画同人誌「漫画クラブ」に参加。56年、単行本作品でプロデビュー。61年『ちかいの魔球』で週刊少年マガジンにデビュー。主な作品に『あしたのジョー』『おれは鉄兵』、『あした天気になあれ』『のたり松太郎』など。文星芸術大学教授

(掲載当時)1939年東京生まれの76歳。漫画家。41年に旧満州・奉天に渡り、終戦の翌年引揚。1950年、友人の作る漫画同人誌「漫画クラブ」に参加。56年、単行本作品でプロデビュー。61年『ちかいの魔球』で週刊少年マガジンにデビュー。主な作品に『あしたのジョー』『おれは鉄兵』、『あした天気になあれ』『のたり松太郎』など。文星芸術大学教授

「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」を抱えて青春期を過ごした私ら世代にとって、ちばてつやさんが作りだした漫画のキャラクターは、人生の伴走者でもあった。「ちかいの魔球」や「ハリスの旋風」に夢中だった中学、高校時代、大学時代には「あしたのジョー」にみんなで熱狂した。社会に出てからも退屈はしなかった。「おれは鉄兵」そして「あした天気になあれ」。気がついたら40男が少年雑誌を買っていた。「スポーツはいいよッ」と子供たちに伝えつづけたこの人が、最後にゴルフを選んでくださったこと、嬉しいですね。

偉才ぞろいの満州
赤塚不二夫は同じ町内に住む同窓生だった

――最近(掲載時の2016年)はゴルフはいかがですか?

ちば: 以前は一週間に一回くらい行きたいと頑張っていたんですけど、最近はたまにしか行けませんね。

――この大学(文星芸術大学)の近くには、良いゴルフ場がたくさんありますけれどね。

ちば: それで引き受けたんです(笑)。日光街道挟んですぐの所には宇都宮カントリーがありますしね。でも近いと却ってダメですね。

――そういうもんですか。

ちば: ええ。今は平均すると二カ月に一回くらいですかね。

――そうですか。ところで、私は団塊の世代ですが、ちばさんの作品から、人生の節目、節目でもの凄く影響を受けながら成長の階段を登ってきたような気がするんですよ。

ちば: 団塊の世代の人たちが少年時代に、「少年マガジン」とか「少年サンデー」とかが創刊されたんですよね。

――僕が小学生の高学年から「マガジン」を読み出して、中学時代は、『ちかいの魔球』、その後、大学時代は『あしたのジョー』に夢中になり、そして最後は40歳を過ぎるまで『あした天気になあれ』があったので、少年雑誌を40代まで読んだことになります。その後も「ビッグコミック」の『のたり松太郎』などがあり、我々はちばさんの漫画ととても近い距離感で生きてきたなという思いがありますね。

ちば: 私が「少年マガジン」で描き始めたのは20歳そこそこで、『あしたのジョー』は25歳くらいから32〜33歳くらいまで続きましたから。

――今年は戦後70年にあたりますが、漫画家の方には満州出身者が多いみたいですね。

ちば: まあ漫画家に限らず、各方面に満州出身の人は多いですよね。当時、それほど多くの日本人が満州に行っていたということなんだと思いますね。

――そうですね。

ちば: 満州から引き揚げてきた人たちは皆、当初はそれをあまり口にしなかったんですよね。別に隠しているわけではないけれど、思い出したくも無いような辛い経験でもあるので、自ら「私は引き揚げ者」だなんてあまり言わなかったんですよ。それがね、田中角栄さんが向こうに行って国交回復したでしょ、あの時に出版社のパーティで、「これで中国に行こうと思えば行けるね、ある意味、故郷だから」って、赤塚不二夫さんか誰かがチラッと言ったんですよ。それを機に、俺も奉天だとか大連にいたとかね、そういう話で盛り上がったんですよ。それを朝日新聞が聞きつけて、皆で故郷を訪ねてみませんかということで、国交回復して間もなくでしたけど、新聞の取材を兼ねて中国に行けたんです。最初に私の家を訪ねたんですけれど、大きい印刷会社だったので、まだ社宅も残っていてね。その後に、赤塚さんも同じ地区の100メートルか200メートルくらいの近くに住んでいて、聞いてみると小学校も一緒だということもわかってね。年齢は彼のほうが3〜4歳上だったから同級生ではないけれど、多分校門あたりですれ違っていたんじゃないかな。

――「ビッグコミックオリジナル」で上田トシコさんをモデルにした連載『フイチン再見!』のなかに、ハルピンからの引き揚げの話も出てきますね。

ちば: 終戦の時に私は6歳でしたけど、上田さんは20歳を越えてたんじゃないかな。私なんかも赤塚さんも森田拳次さんも皆、可愛がってもらいました、よく叱られましたしね(笑)。

――ちばさんは終戦直後に、混乱期の満州で中国人の徐さんという、お父様の元仕事仲間の家の2階でかくまってもらい、そこで漫画を描き始めたということですが。

ちば: まあ、その時に描いたのは、ただの絵なんですけれどね。弟たちが騒ぐと、ここに日本人がいるとわかってしまい、どういう目に遭うかわからない状況だったので、最初は母親が本を読んで聴かせたり絵を描いたりしていたんですが、そのうちに「徹弥お前が代わりに描きなさい」って言われて、それで絵を描いたんです。そもそも当時、家に無かったので私は漫画を知らないんです。日本に帰ってきて何年か経ってからですね、漫画と出会ったのは。

――後に描かれた自伝的漫画のなかに、現地で残された日本人が「助けると思って殺してくれ」と懇願するというような場面がありますよね。ご自身のなかに、そういう人間にとって究極のシーンが記憶として残っているわけですか。

ちば: まあ、銃で撃った場面を直接見たわけではないんですが、実際に、家族が一カ所に固まって頭から血を流して死んでいる現場を見た時に、あれは自ら兵隊に撃ってもらったんだというようなことは聞きましたね。そういう現場は何度も見たし、ある意味、そういう現場を踏み越えて、私たちは日本に帰ってきたということなんです。それは私だけではなく、赤塚さんも森田さんも、映画監督の山田洋次さんなんかもそうですけど、いろんな人がそういう体験をしていますよね。

――私がこれまでお会いした偉業を残された方には、何故か満州出身者が多いんです。ノーベル賞を獲った根岸英一先生もそうですし。

ちば: ああ、そうですか。

――理屈ではなく、本当の社会や人間とはこういうものだということを子供の頃に目の当たりにすることは、人をある面で成長させるのでしょうね。

ちば: そうですね、なかなか得られない体験ですからね。夜中に日本に帰るために歩いていると、乾いたパラパラパラという音がしてピュン!と近くに何か飛ぶんですよ。すると大人たちが『伏せろ!』って言うから、その場に伏せて匍匐前進ですよ。常に死が身近にありましたよね。子供はいつも栄養失調だから、ちょっとした寒さで、風邪をひくのではなく死んでしまうんですよ。だから、ああ人間って簡単に死んでしまうんだというのが刷り込まれたというか、それで、私のキャラクターはけっこう早く死ぬんですよ。

――ああ、そうですね。

ちば: 力石徹なんかは、私はここまでいったら人間は死ぬなと思って描いているわけだから、ドンドン顔が死ぬための顔になっていくというか、死相が出てくるんですよ。今の若い元気な人たちはわからないでしょうけれど、私は若い頃から死はとても身近に感じていましたからね。うちの家族は6人が一人も欠けることなく帰って来れて、これは奇跡だなと思うんだけど、だけど日本に帰ってきてからが大変でした。皆、栄養失調で、あばら骨が浮き出て、お腹だけがポコンと出っ張って、手と足は割り箸みたいに細くてね。特に親は4人の子供を何とか生かしたいと思うから、自分たちはろくに食べていないんですよね。昭和20年の8月15日の終戦の日から、一カ月近くは食べるものはなんとかありましたが、でもその後、日本に帰るまでの一年くらいの間、両親が何かを食べている光景の記憶がないんですよね。恐らく子供が寝静まってから、生きるためにギリギリの食べ物を何か口にはしていたんでしょうけれどね。

画像: 弟、ちばあきおさんが使っていたウェッジ。これを見ると、二人でゴルフをしていた情景が思い浮かぶ

弟、ちばあきおさんが使っていたウェッジ。これを見ると、二人でゴルフをしていた情景が思い浮かぶ

――そういう境遇のなかでは、家族がお互いに自然に協力し合うものなのでしょうね。亡くなられた弟の、あきおさんも同じ漫画家でしたが、そういう繋がりも自然にできてきたものなんでしょうかね。

ちば: 漫画というのは家のなかに閉じ籠って描く仕事ですから、猫の手も借りたい時は母親に、ちょっとこの黒い所を塗りつぶしてとか、家族に手伝わせることが多いんですよ。弟たちは最初は邪魔をしていたけど、私の描いたモノが仕事になりそうになってきたら手伝いをするようになって。そういった影響でしょうね、元々あきおは器用なほうでしたから、私なんかより絵は上手かったんですよ。

――『キャプテン』や『プレーボール』をお描きになったんですね。

ちば: そんなに長いこと描いていたわけではないんですが、いつまでも皆から愛される作品を描いたと思いますね。

――ゴルフを始められたのもご一緒でしたよね。

ちば: ええ……。

――『あした天気になあれ』はセントアンドリュースでの太陽の優勝で幕を閉じました。

ちば: オールドコースのローマンブリッジの近くに穴を掘ってあきおの写真を埋めてきました。あきおも連れて行きたかった。

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凄惨な満州引き揚げ体験が、ちば作品に登場するキャラクターたちの「死生観」に深い影響を与えていたといいます。

しかし、帰国後に漫画家としてデビューを果たしたちばさんを、今度は見えない病魔が襲います。

続く【中編】では、心身を蝕んだ謎の幻覚“赤い虫”との闘い、そして『ちかいの魔球』などの健全なスポーツ漫画が誕生した知られざる舞台裏に迫ります。

「【追悼】ちばてつやさん<中編>ちばさんを襲った幻覚“赤い虫”の恐怖!真冬のキャッチボールで悟った「肉体と創作」の真理」はこちらから

「【追悼】ちばてつやさん<後編>「あした天気になあれ」打ち切り寸前を救った1通の手紙!ちばてつやさんが遺した向太陽とゴルフへの愛」はこちらから

聞き手:中村信隆(ゴルフダイジェスト社主幹)
写真:中居中也

※ちばてつや氏や聞き手の経歴や肩書などは2016年掲載当時のものです。


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