第二次世界大戦に敗れた日本の都市の大半が、連合軍による爆撃によって焦土化され、復興には多大な時間がかかると思われていた。

昭和25年6月に、朝鮮半島で勃発した朝鮮動乱(昭和28年7月休戦)は、在韓米軍や在日米軍の物資生産、関連機関による物資の調達などで直接需要10億ドル(当時は1ドル=360円/3600億円)、間接では36億ドル(1兆2960億円)にもなり、日本は敗戦により立ち遅れた製造技術や、大量生産方式を学ぶことにもなった。

画像: カナダカップの舞台となった霞ヶ関カンツリー倶楽部10番ホール/156㍎/パー3 ティで構えると、左側から張り出した老松の枝や正面の松が邪魔、右側の林も気になる。正面のバンカーは身の丈ほど深い

カナダカップの舞台となった霞ヶ関カンツリー倶楽部10番ホール/156㍎/パー3
ティで構えると、左側から張り出した老松の枝や正面の松が邪魔、右側の林も気になる。正面のバンカーは身の丈ほど深い

そして、この動乱特需は日本の輸出を促し、産業の成長に役立ち、その後訪れる高度経済成長の基盤にもなっていった。

同時に社会インフラも整い始め、かつての生活を取り戻しつつある昭和32年、10月24日から4日間、埼玉県の霞ヶ関カンツリー俱楽部で行われた戦後初の国際試合、第5回カナダカップ(現ワールドカップ)に、中村寅吉、小野光一が出場し、日本組が世界の強豪を抑え団体優勝、中村寅吉は個人優勝も果たした。

画像: カナダカップ優勝の中村寅吉(左)、小野光一(右)

カナダカップ優勝の中村寅吉(左)、小野光一(右)

この優勝が契機となり、ゴルフブームが湧き、全国各地で多くのゴルフ場開発が計画されることになった。

同じ昭和32年には東京タワー(完成は昭和33年12月)の建設が発表され、各家庭へのテレビ受像機(当時の三種の神器は冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ)の普及とともに大きな話題となった。

ちなみにカナダカップは、我国最初のゴルフのテレビ中継だった。

また前年の昭和31年7月に発表された経済白書の結びの言葉に「もはや戦後ではない」と記述されて、流行語にもなっている。

日常生活のなかに「ゆとり」が感じられるようになると、ゴルフに興味を示す人たちも増えてきた。

昭和20年代に開発されたゴルフ場は16コースと僅かだったが、特需により落ち着きを取り戻した昭和30年代前期では84コースと増えていた。

画像: 昭和27年開場の熊本阿蘇CC湯の谷にて撮影。開場時ゴルファーはネクタイにニッカーボッカー姿だった

昭和27年開場の熊本阿蘇CC湯の谷にて撮影。開場時ゴルファーはネクタイにニッカーボッカー姿だった

昭和20年代開場の主な「井上誠一」設計コース

●くまもと阿蘇CC湯の谷(昭和27年)
6487y/パー72/コースレート71.6

●川崎国際生田緑地(昭和27年)
6225y/パー72/コースレート73.3

●鷹之台カンツリー俱楽部
7102y/パー72/コースレート74.0

●愛知カンツリー俱楽部(昭和29年)
6923y/パー72/コースレート75.1

●大洗ゴルフ俱楽部(昭和29年)
7190y/パー72/コースレート74.4

(ゴルフダイジェスト刊「美しい日本のゴルフコース」)

①の記事はこちら↓↓
日本のゴルフ史「113年」をタイムトラベル①/起源は1903年の神戸ゴルフ俱楽部

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