最後の9ホールに入ると、優勝の望みを絶たれた島田幸作と増田光彦は、プレーのペースをグーンと速めた。杉本英世のスロープレーのせいもあるが、杉本の組と2ホールくらい間が開いてしまった。
島田と増田は尾崎援護に回ったのである。いくら組が違うといっても、追いかける杉本プレーが実際視野に入れば、やはり精神的な重圧があるはずだ。尾崎優勝の隠れたファクターがこういうところにもあったのである。
尾崎優勝のもうひとつの原動力になったのは、フェニックスは敵地でありながら準フランチャイズでもあるということだった。尾崎は四国徳島の生まれであり、西鉄に3年間いた。そのため多くの知人や友人が応援にかけつけ、これらの人たちが、後からくる杉本の一挙一動を尾崎の耳に入れていた。
特に杉本がボギーを叩いたときなどは、それとほとんど同時くらいに尾崎は知っていたのである。
表彰式後のインタビューで「杉本さんのことはすべて知っていた」と照れくさそうに語っていたことでも、尾崎アーミーの活躍が、どれだけ精神的に余裕をあたえたかが窺える。
今度の試合では尾崎自身「ドライバーの飛距離は以前と変わらない」といっていたが、確かに飛距離は落ちていた。しかしアプローチとパットは別人のように上手かった。
昭和39年甲子園の優勝投手は、涙を流さんばかりに悔しんだ関東オープンの敗北からの6日間の間で、ゴルフでも勝つための術を着々と身につけていたのである。
(月刊ゴルフダイジェスト1971年11月号)
※通算113勝をあげている尾崎将司。その1勝目が1971年の日本プロであることは知られている。しかし、どんな形で優勝に至ったかは、これまであまり語られてこなかった。
ゴルフダイジェスト社には創刊以来のバックナンバーが揃っている。もしかして・・・。1971年11月号を開いてみると、特集・日本プロ選手権「宮崎に甦った甲子園のヒーロー」という記事を見つけた。今回は、全文掲載ではないが、尾崎将司初優勝に関連する個所はすべて拾い上げた。
この初優勝から25年後の1996年11月17日、ダンロップ・フェニックスでプロ通算「100勝」を達成。場所は同じフェニックスカントリークラブだった。
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