「栃木県には那須GCがあるが、東京人が造ったゴルフ場だ。栃木県人による栃木のゴルフ場が必要だ」という意地っ張りから生まれたのが日光カンツリー倶楽部です。
戦後最初の民選知事・小平重吉は、「世界に名を知られた日光に、観光施設としてのゴルフ場を造る」が政策目標の一つでした。昭和28年(1953年)7月の発起人会には、島田恭平は相模CC理事長を辞め、杉田寧は我孫子のキャプテンを辞めて日光CC理事長、キャプテンとなる熱の入れようだったそうです。
発起人には知事、副知事、日光町、今市町、金谷ホテル、鬼怒川館。株主には東照宮、輪王寺、二荒山神社まで駆けつけました。そして席上、県当局は第一次資金と用地確保を約束、建設工事も県営でやると確約したのです。
コース設計の井上誠一が選んだ土地は、中禅寺湖畔、霧降高原など日光の山ではなく、明治年間2度の大洪水で生まれた転石累々の荒蕪地、大谷川の旧河床でした。表土が薄く5寸掘れば隠れ石が出て、バンカーも掘れない土質でしたが、井上は、男体山に向かって広く開けた旧河床に、杉や樅の独立樹、日光特有の小米柳などが自生、見事な林間調になった景観に心を奪われたようです。
地下の隠れ石に拒まれて松の根は横に張る、枝も横に伸びる。それを予見して井上は「バンカーは少なくてもいい。松の枝がきっと日光ならではのハザードになるから」と何回もいっていたそうです。
もう一つ、日光には自然の不可思議がありました。日光のコースは冬になると凍ります。春が来ます。凍ったフェアウェイは溶け始めます。溶け方は、土質、日照量、地下水の流水量によって微妙に違います。それが10年、20年と続くと、フェアウェイも平坦に見えてうねりが微妙に違ってくるのです。それがゴルフを難しくします。
これも一種のマザーネイチャー(自然が母)かもしれません。日光CCのコース改造にかかわった設計家の川田太三は、こうした自然ながらの変化について、「名コースはどこでも、設計者と自然(神)と幸運との合作ですよ」といっています。
2007年ゴルフダイジェスト社刊
田野辺薫「一度は回りたいニッポンの名コース」より
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