多くの外国人選手(主に韓国や台湾などアジア圏の選手)が日本ツアーで活躍するようになって久しい。その先駆者的存在として知られているのが、男子では日本ゴルフの功労者と称される陳清波、女子では80年代女子プロ界を席巻した涂阿玉。
現在の日本ツアーを支えているといっても過言ではない海外勢の活躍も、そのルーツをたどると台湾ゴルフとつながるのだ。今週の月金コラムは「台湾ゴルフのDNA」と題し、台湾ゴルフの黄金時代を作り上げた陳清波と涂阿玉の話からその歴史や強さの秘密を紹介する。
まずは、涂阿玉に話を聞いた。
1流から超1流になるために涂阿玉が身に付けたワザとは・・
涂阿玉 中学生時代に家の前にゴルフ場(豊原CC)ができて、そこでバイトしたのがゴルフとの出会いです。人のを見て自分で覚えたから最初はフックグリップ。球は全部フックでした。
豊原CCでキャディとして働いでいた涂阿玉。当時彼女のコーチをしていたのは呉朝炳というプロ。彼は自分自身が背が低いということもあり、小柄な選手を教えるのが上手かった。この呉コーチが育てた背の低い選手たちは後にプロとして活躍し、台湾ゴルフの強さのひとつの象徴となった。その後、涂は17歳の時に淡水に移り、陳金獅に師事。当時淡水には日本オープン覇者である郭吉雄など男子プロがたくさんいて、この時に陳清波とも出会い、2回レッスンをしてもらったという。
涂阿玉 フックボールは陳金獅先生のレッスンで直しました。郭吉雄さんからはアプローチとパターを少し教えてもらいました。パンチショットは許勝三さんに教わりましたね。
そして、涂は淡水でその後のゴルフ人生を左右することを命じられた。
涂阿玉 謝永郁から「アナタ、1流のプロになりたければ、1本のクラブで最低4つの球を打てるようになりなさい」と言われました。フック、スライス、高い球、低い球の4つの球を覚えろということです。当時は練習場で真っすぐの球は打たなかったです。全部変化球。全部です。
「1つのクラブで4つの球を打て」。涂が先輩から言われたこの言葉に、台湾ゴルフの強さのルーツが秘められている。実は、ヤニ・ツェンもゴルフを始めたての頃、最初に『ボールを曲げて覚える』ことを先生から命じられたのだと、後に話している。
「4つの球」のマスターは1流になるための最低条件と言われた涂阿玉は、5つ目の球をマスターし、1流から超1流の選手になった。伝家の宝刀『パンチショット』である。
「台湾ゴルフのDNA 」(vol.1)
※チョイス No.119より
「台湾ゴルフのDNA vol.2」では、涂阿玉が語る「パンチショット」についてをご紹介します。