「ウェッジは鍛造」という常識を打ち破った
1970年代ごろまで、アイアンといえば、軟鉄鍛造製が主流だった。もちろんウェッジも同じ。というのも、鍛造が主な製法だったからだ。こんな状況で、ステンレスロストワックス製法を採用してアイアンに革命をもたらしたのがピン。ピンのクラブが注目され始めると米国でも似たようなクラブが生まれた。その代表がリンクスで、初期にはピンから訴状を起こされたりもしている。
経緯は省略するが、70年代後半、日本では、一時期、リンクスの人気は元祖であるピンをはるかに凌いでいた。中でも「マスターモデル」ウェッジの人気は凄まじく、エリートゴルファーのあいだでは一種のステータスになっていたほどだ。
米国でステンレス鋳造製が注目されると日本のメーカーも追随する。大手メーカーの中でいち早く開発に乗り出したのが美津濃(現ミズノ)で、72年に「オールスター」を発売している。同社では当時、「精密鋳造の勝利」と銘打っていた。
リンクスのマスターモデルは青木功をはじめとしてほとんどのプロが一度は手にした名器である。ジャンボ尾崎も一時期使っていたし、倉本昌弘ら当時のトップアマたちも好んでバッグに入れていた。マスターモデルが本家アメリカよりも日本で受けた理由のひとつはグースネックだったこと。日本のプロたちは、伝統的にグースネックを好んできた。マスターモデルは数値的にはさほどグースではないが見た目にはグースネックに見え、開きやすさもあった。加えてステンレスロストワックス製だったので、溝が消耗しにくく、スピン性能も維持しやすかった。
一方、ミズノのオールスターはその後、クラックスやポラリスなどへと発展し、ポラリスは中嶋常幸が使った。中嶋は75年春にプロテストに合格するとすぐにミズノと契約している。
前述したが、この当時、鍛造製よりもステンレス製のロフトワックス製法やキャスティング製法のほうが優れていた。フェースの溝にしても、当時の鍛造製法では成型時に鍛圧で入れていたため、精度に難があった。オールスターの売り文句「精密鋳造の勝利」にはこうしたことも含まれている。
かつても今も「ウェッジは打感の点でやっぱり軟鉄鍛造製に限るね」というプロは多い。だが、プロの中でも並外れた感性を持つ青木や中嶋が一時期にしてもステンレス製のモデルを使い、結果を出してきた。もちろん、プロモデルに関していえば軟鉄の方が研磨や曲げ調整がしやすいなどのメリットがあるが、リンクス・マスターモデルやオールスターが「ウェッジは軟鉄鍛造製」という思い込みを変えるきっかけになったのは間違いない。
文/近藤廣
(月刊ゴルフダイジェスト2015年10月号より)