初めて日本人がメジャーでトップに立ったのは41年前のことだった
日本選手が初めてメジャーの舞台で首位に躍り出たのは、1976年全英オープンでの鈴木規夫だ。鈴木は初日に69の3アンダーをマークし、セベ・バレステロス、クリスティ・オコーナージュニアとともに首位タイに並んだ。
「17番ホールを終えて、自分がトップにいることに気がつきました。欲がなかったぶん、いい気分でしたよ。18番ホールのグリーンを上がるときに受けたギャラリーからの大声援は今でも忘れません。プロゴルファーになってよかったなと心の底から思いました」(鈴木)
しかし、2日目は、75で後退。それでも自分では70くらいで回った感覚と、闘争心を失うことはなかった。3日目も75としたが、最終日に70で回り、通算1オーバーで10位タイに食い込んだ。勝てなかったが、日本人でも世界の舞台で戦えると、日本中のゴルファーが確信した。
最後は執念が上の人が勝つ
これまで日本人選手がトップに立ったのは鈴木だけではない。あわやと期待させた試合はいくつもある。その中で、多くのゴルファーの脳裏に刻まれているのが、青木功とジャック・二クラスが一騎打ちを演じた“バルタスロールの死闘”として知られる1980年全米オープンだ。
ジャック・二クラスと共にトップに立ち、迎えた最終日、二クラスとの一騎打ちの様相となったが、前半のハーフで青木は2打の遅れをとる。「欲が出たんでしょうね。優勝が目の前にちらついて体が硬くなってしまったんです」
後半、いつもの自分を取り戻したものの、二クラスとの2打差が縮まらず、メジャー最高位の単独2位に終わった。
これまで多くの日本選手が72ホールを終えるまで守りきれなかった首位の座。日本人をその気にさせた76年全英オープンでの鈴木規夫以来、41年間も日本のゴルフファンはお預けを食った状態である。その理由を鈴木は自戒を込めて次のように推測する。
「技術よりも精神的なコントロールでしょう。敗れた選手は皆、自分のゴルフに徹し切れていないと思います。欲を断ち切って、勝つために必要なことを淡々と最後まで行えるかどうか。そうでなければ、本気で勝ちにきている世界のトップには勝てません」(鈴木)
たしかに技術的には一瞬でもトップに立つわけだから、大きく劣っていることはない。彼らとの差があるとすれば、勝利に対する執念だろう。実際、メジャーに出場する前から優勝しか狙っていないという発言をした日本選手は皆無に等しい。3日目を終えていい位置にいたら狙ってみたいとか、優勝争いに絡めればいいですといった程度だ。
しかし、ようやく日本にも本気で優勝を狙っている選手が現れた。それが松山英樹だ。今年の全米オープンでは優勝したブルックス・ケプカと4打差ながらも2位タイでフィニッシュ。全米プロでは最終日の10番を終えた時点で単独首位に立った。惜しくも敗れたが、メジャーに負けて本気で悔し涙を流せるのは、松山英樹だけと言っていい。
松山もまた、首位に立った瞬間、先人達と同じくメジャーの「魔物」を見てしまったのかもしれない。一度「魔物」と交錯した松山にもう怖いものはない。今から、2018年のメジャーが楽しみだ。
写真/岩井基剛、姉﨑正
(週刊ゴルフダイジェスト2017年7/18号より抜粋・加筆)