宮本留吉の教えで、高いスライスが低いドローへと変化した
「あなたはいいね、いろいろなプロに会えて、教えてもらえるんだから」
ゴルフ記者をやっていると、知人や仲間からこんなことをいわれるケースがよくあった。ところが実際は、ゴルフスウィングは十人十色で、打ち方にも微妙な差があって、みんなの技術を全部採り入れるというわけにはいかなかった。そんなことをしたら、頭の中がパンクしてしまう。また、話を聞いたプロたちのテクニックのいいとこ取りをして、つなげてひとつにするという器用さも持ち合わせてはいなかった。
私は「取材のついで」という役得があったのは確かだが、逆に多くのプロの話を聞けば聞くほど「交通整理」が必要で、下手に何でも採り入れてしまうと、収拾がつかなくなることもわかっていた。
だが、そんな中で「この人に会えてよかった」という人がいた。日本オープンに6回、日本プロ選手権に4回、関西オープンに4回、関西プロに4回優勝した宮本留吉プロである。
昭和36年ごろのことである。私は千葉県のあるクラブに入会、そのときハンディ9をもらって、気持ちの上でも強く競技志向に傾いていた。そんなときに雑誌連載の仕事で、宮本プロに月に1回、話を聞くことになったのである。
私の打球は、ゴルフを始めたときからスライスだった。さすがに寅さん(編注:中村寅吉プロ)からのアドバイスがあったりして、7年近くもプレーしていると、しょっちゅうスライスに悩まされるというほどでもなかった。
ただ、弾道がわりと高いスライス系だったので、ちょっとしたタイミングのずれ、腰や肩の早い開きによって、スライスが突如、暴れ出すことがあった。1ラウンドの間に7とか8とかのスコアのホールが混じるのはそのためだった。
宮本プロは若いときから低い弾道を身につけていた。昭和7年に来日したウォルター・ヘーゲンのショットに魅せられて、苦労の末に手にした球筋である。ヘーゲンはボビー・ジョーンズ、ジーン・サラゼンらと覇を競った名手。宮本プロはよほどヘーゲンの低いショットが気に入ったのだろう。猛練習を重ねて、とうとう「ジャパニーズ・ヘーゲン」といわれるまでに、低くてよく止まる球筋を自分のものにしてしまったのである。
宮本プロがヘーゲンから学んだ低弾道のポイントは、大きく分けて次の4点だったそうである。
・フェースを下向きにしてスウィングする
・ヘッドを20センチボールの後方にずらしてアドレス
・体重はアドレスからフォロースルーまで右足に置く
・フィニッシュは低く抑える
フェースを下向きにしてスウィングするのは、インパクトの際にロフトを少なくするのに役立ち、ヘッドを後方にずらすのと、体重を右足に置く、というのは同じ目的で、アッパーブローの弧をキープするためである。最後の低いフィニッシュは、低いフォロースルーで、ロフトを少なく保つ技法。いわば低い弾道の定番の形だ。
私がゴルフを始めたころは、フェースを下向きに上げたり下げたりするという理論はなかった。バックスウィングでは、手首を右に回しながら、インサイドヘテークバックし、ダウンスウィングでは、その手首を戻して振り抜いていくのが正統派だった。
当時、外国の技術書には「テークバックでは手首のサピネーション(外転)」とか「ダウンスウィングではプロネーション(内転)」などと、頻繁に使われていたが、現在の技術には、こうした表現は出てこない。
宮本プロのスウィング解説を取材したおかげで、確かに私の球筋は低くなり、スライス系からドロー系に変わった。もっともそうなるまで簡単ではなかった。注意したポイントのひとつは、手首を動かさずフェースを地面に向けながら、フラットにテークバックしていくこと。もうひとつは体重移動をしながらも軌道の最下点がボールの後方20センチくらいになるのを意識し、さらにフェースが上向きになるのを極力抑えたことである。
私の球筋は5カ月ほど一生懸命練習した結果、今までの高いスライスから、100パーセントとはいかないが、低いドローに変わってきた。これを機に、競技志向に一気に突っ走ろうと思っていたとき、また違った「病気」が私を待ち受けていた。
右足首を内側に折るようなベタ足で低いドローボールを取り戻す
宮本プロに教わった低いドローボールの絶頂期は3カ月くらいだっただろうか。大変短い期間だったような覚えがある。
ロードローを打ち始めて2ラウンドを消化したころ、突然、打球が変な曲がり方を始めたのだ。ボールが低く右寄りに飛び出していったかと思うと、急激に左へ曲がっていく打球である。
このショットが出るときのインパクトの音は、澄んだ「カーン」という音ではなく、それまで聞いたことのない「ビシャッ」という音だった。手元に伝わるフィーリングも非常に悪く、打った瞬間に地面を這うようなフック、というのが正しい表現であろう。悪いことにこの打球が、毎回、しかもフェアウェイウッドはもちろん、7番アイアンくらいまで広がっていった。
最初はなんでこんなへんちくりんなボールが出るのか、まったく見当もつかなかった。たまたま作家の水谷準さんの取材に同行したときに「そのショットは君、ダックフックというんだよ」と、教わった。打球がアヒルの足のように曲がっていくことから名づけられたらしい。
シングルで文壇一の使い手だった水谷さんは「(原因は)極端にかぶったフェースか、早い手首の返しだね」とアドバイスしてくれた。
そういわれて思いついたのが、宮本プロの4カ条だった。とりわけ最初の「下を向けたフェース」が引っかかった。宮本プロのいう「スウィング中、フェースは下に向けておく」をやり過ぎているのではないかと思ったのである。
以前には「ヘッドアップするな」に集中し過ぎて、大きなフォローへの動きを制限してしまったが、今度もまた、極端にやり過ぎてしまったのではと感じたのである。
そこで、フェースを下に向ける度合いを加減しながら振り上げる練習を始めたが、元の低いドローには戻らなかった。原因は下に向けたフェースではなかったのである。
そのころは、宮本プロの連載は終わってしまい会う機会はなくなっていた。仕方なく私の「師匠」は宮本プロの単行本『ゴルフとともに50年』(ベースボールマガジン社 1964年刊)になった。宮本プロの連続写真を穴の開くほど見つめて、どこにイメージの違いがあるのかを探し出そうとした。その中で「これじゃないか」とひらめいたのが、ダウンスウィングからフォロースルーにかけての右足の動き。
宮本プロの右足は、インパクトでかかとがしっかりと地面をとらえ、その状態がフォロースルーまで続いていた。とくにインパクトでは、右足首を内側に折るような動きで左へ押し込んでいるように見えたのである。
連続写真が撮影されたときは、宮本プロは60歳は過ぎていたはずであるが、この柔らかい右足首でフェースがかぶるのを抑えて、低いフォロースルーにつなげていた。これこそ、ロードローを引き出すポイントではないかと、ピンとくるものがあった。
私の右足首は、宮本プロほど柔らかくはなかったのだが、ベタ足打法で練習を始めたら、ほどなく元の低いドローボールを取り戻すことができた。ダックフックの原因は、スウィング中のフェースの向きにこだわり過ぎて、インパクトで下半身が止まってしまい、そのためにフェースがいっそうかぶって当たるようになったことだった、と自分なりに解釈した。
もし、このとき右のベタ足を使って、フェースをスクェアに保つ打ち方にたどりつかなかったら、どれほど長くダックフックにいじめられただろうか。
この後も、長いキャリアの中では、いろいろな「難病」に取り憑かれたが、運よく早期発見、軽症ですんだものもあれば、逆に10年近くも同じミスショットとの戦いを余儀なくされたものもあった。
「ゴルフ、“死ぬまで”上達するヒント」(ゴルフダイジェスト新書)より