関西での仕事を終え関東に戻ったアリソンは何をしていたのか? もちろん東京GC朝霞は工事中で、時折見に行く必要があっただろう。川奈だ、川奈ホテル・富士コースだ。
では、どのようなことから川奈ホテルを設計したのだろうか。調べてみたら、アリソンが滞在していたのは帝国ホテルだった。その帝国ホテルのオーナーだったのが大倉喜七郎男爵。大倉は英国留学の経験があり19歳から26歳まで英国に滞在し英語は堪能だったとされる。ホテルに英国のコース設計家アリソンが滞在していることは大倉にも伝えられていたに違いない。
1968年5月号の「月刊ゴルフダイジェスト」に作家・摂津茂和の「川奈と大倉喜七郎」が掲載されていたので引用してみたい。
『朝霞コースの設計を終えた後、関西の廣野GCの設計に赴く途中、大谷光明、赤星六郎、高畑誠一らとともに、大倉氏の招待で川奈に立ち寄った。大倉氏としては、ちょうど富士コースの建設に着工したばかりであったので、この機会をとらえてアリソン見てもらい、その批判を聞くためであった。その日、アリソンは大倉氏の案内で大島コースと、建設中の富士コースをつぶさに視察しながら、口を極めて川奈の景色と地形を激賞し、さらに建設中の富士コースについて、いろいろ細かくアドバイスしたという。このため大倉氏は急遽設計を変更し、アリソンに依頼して大谷光明の設計を全面的に改造することにした』。
アリソンは、川奈の富士コースを検分したときに、その景観に感激し「最初の3日間は筆をとらなかった。景色に幻惑されて正しき設計を誤る。印象が薄らぐまで3日間はかかる」としている。このことから関西に赴く前、川奈に3日間以上滞在していたことが分かる。
富士コースは、大谷光明の設計で1929年ごろから工事が始められ、アリソンが視察した1931年1月にはすでに6ホールほど工事は終了していたといわれる。これまで富士コースは、赤星六郎が設計したとされてきたが、正式に設計を依頼されたのは大谷光明だったことが判明した。
大谷光明から摂津茂和に宛てた手紙の内容も分かったので引用してみたい。
『大倉氏から東京から3時間で到達できる所で、冬霜柱が立たぬ所がある。冬のゴルフ場として適当だと思うから、賛成なら相談に来てくれと電話があった。それはどこかと尋ねると、先年病気療養のために伊豆にいた。この田舎にゴルフ場ができたらその地方の開発となり、村の発展になると思う。大倉氏から、選手権コースひとつと、初心者用の幼稚園コースと2つの18ホールを造りたい。それにホテルを付属させたい』。
これらのことから、大倉とアリソンと川奈がひとつにつながった。
1931年には川奈にはまだホテルが建設されていなかったが、クラブハウス兼レストランと20ベットほどロッジがあり、長期滞在は可能だった。
関西に行く途中に立ち寄っただけなので、コース設計のため本格的に滞在したのは関西から戻った後だとも推測できる。そうでなければ富士コースの検分とコース設計の時間が足りない。ちなみに富士コースの設計図は、アリソンが英国に帰国し、その後米国のデトロイトに戻ってから送られてきている。
川奈に滞在している間、アリソンはすでに完成していた大島コースをプレーしていたようだ。公式には日本でのプレーは関西に赴いたとき、茨木CCで1度だけプレーをしたとされているが、大島コースも6ホール完成していた富士コースもプレーしていたようだ。大島コースの14番ホールは117ヤードと短い打ち上げのパー3だが、このホールだけバンカーの形状が異なり、富士コースのバンカーと同じで通称「アリソンバンカー」になっている。
1930年11月25日にカナダから横浜に到着したアリソンは、東京GC朝霞、廣野GC、川奈ホテル富士のコース設計をし、霞ヶ関CC東、藤澤GC、茨木CC、鳴尾GCの改造案を提出している。これだけの作業をするには3カ月ではとても足りない。
では、帰国したのはいったいいつだったのだろうか。霞ヶ関CCの会報誌フェアウェイに貴重な記事が掲載されていた。
『東京ゴルフ倶楽部膝折新コース建設のため来朝適々当倶楽部コース改良のために蘊蓄を傾けたアリソン氏は4月9日帰英上途に付4月6日午後7時より日本工業倶楽部にて東京、程土ヶ谷、六實 藤澤、川奈及び霞ヶ関各倶楽部代表者及有志25名参集送別宴を催し、東京ゴルフ倶楽部キャプテン井上子爵主人側を代表して一場の挨拶をなしアリソン氏の感想談あり有意義なる会合であった』。
これによりアリソンは、4月9日に英国に向けて出港したことが分かった。
つまりアリソンは、従来言われてきた滞在2カ月、もしくは3カ月ではなく4カ月も日本にいたのだ。