昨年、25歳以上の女子アマの頂点を決める日本女子ミッドアマと50歳以上が出場する日本女子シニアの2冠に輝いた近賀博子(おうがひろこ)。所属クラブでは、クラブチャンピオンでもある。50歳を超えて一気に花開いた彼女は、今もアスリートの魂を持ち続け、感謝の気持ちを忘れない日々を過ごしている―。
画像: 近賀さんは172センチと高身長で華やかな雰囲気を持つ52歳。10代や20歳前後の女性トップアマたちとの交流も楽しんでいる

近賀さんは172センチと高身長で華やかな雰囲気を持つ52歳。10代や20歳前後の女性トップアマたちとの交流も楽しんでいる

"アジア女子シニア"も勝って、”3冠”達成

近賀博子の2022年は、濃密な1年だった。

「すべてがつながって噛み合って集約した。ご褒美が優勝でした」

日本女子ミッドアマと日本女子シニアの2冠を達成。今も競技で活躍する三木逸子以来2人目の快挙だ。そしてシニアの上位3名が参加しマレーシアで行われた国際大会・女子シニアアマでは、団体戦は2位だったものの個人戦で優勝し“3冠目”を達成。

「楽しかったですよ。今回が女子初で、出場チームは少なかったけど、一番強いオーストラリアは男女で参加していて、団体はどちらも優勝。個人タイトルも狙っていたでしょうけど、私がひょいと出ちゃったので」

と軽やかに笑う。近賀はいつも、同伴競技者のプレーを見ながら「ナイスショット!」と大きな声をかける。

「ついキャディ時代のクセで応援しちゃう。それに、たとえばミッドアマでは飛ばし屋の上手な子と一緒でしたけど、彼女がパー5でトラブった。でも私、そこで『よし』と思えないんです。逆に自分もズルズル……お互いよいプレーをして、負けたと言えるほうがいいですよね」

いつも競技ゴルファーとして、真摯にコースに挑んでいる。

「女子アマで50ヤード置いていかれたくないですしね。風の中のゴルフは好きです。ピーカンだと若い子にかないませんが、考えるゴルフができるから」

「ぜひ出たかった」という男性クラチャンが集う報知アマでは、21年、22年と連続で史上4人目の女性選手として決勝に進出した。

若い選手たちとの交流も多い。

「女子アマにも出ているので。馬場咲希ちゃんは中学の頃から知っています。昨年、全米女子オープン出場が決まった直後に久しぶりに会って『おめでとう! すごいね!』と。私も172㎝ありますけど、彼女は初めて会ったときから大きくてスラッとしていて。でも大きくても猫背になったらダメ、胸を張っていきなさいって。お母さん、お姉さん的な目線になりますよね」

そうして今日もコースで、「ナイスショット!」と口に出す。

自身の年齢と性別を言い訳にしないゴルフが、いろいろな壁を取り払う。

軟式テニス出身で、ゴルフは独学スタート

画像: ドライバーショットは"若い子たち"に置いていかれることもあるが、230~240Yの飛距離でアウトドライブすることも

ドライバーショットは"若い子たち"に置いていかれることもあるが、230~240Yの飛距離でアウトドライブすることも

1970年長崎生まれの近賀博子(旧姓:田中)は、幼い頃から運動神経がよく、小学生のときはバレーボールをしていたが、中学から軟式テニスに取り組み、腕を磨いて高校時代は全国で活躍。

「実業団の旭化成に入ってお世話になっていました」

しかし、”体育会”の世界に長くいると疲弊していく。少し距離を置こうと考え、ゴルフ場のキャディの仕事に転職した。

「ゴルフは未経験。寮で住む所を確保して、貯金を使って免許を取って車を買って準備しました。ゴルフの世界に飛び込んだんです」

ゴルフは当初”仕事として”覚えたが、自身もプレーヤーとなる。女子プロという職業も知った。

「最初からやはり競技に興味がありました。ずっと監督から怒られ緊張しながら真剣にやってきたので、物寂しくなっちゃうんですよ。結局のんびりできないんです。自分で責任を負えるものを考えたときに、プロゴルファーという道があるのだと。実業団では、自分たちに入るものはお給料だけ。女子スポーツ選手で稼げるのはゴルフしかないですよね。でも当時、私が女子プロの話をするとプロレス? って言われてました(笑)」

根っからのアスリート。センスはあった。軟式テニスの経験もゴルフに生かした。

「テニスはとにかく右手が強い。でも、ゴルフを始めるとすぐ左手が大事だと気づいて。左手主導でやっていきました。本などはあまり見なくてほぼ独学。人の話を聞いたりテレビのレッスンで耳にしたことを、いろいろと組み合わせて、これとこれは言っていることは一緒だ、これは自分になぜ合わないのか、などと研究はしましたね。4スタンス理論を聞いて、これだ! と思ったり」

いろいろな人との出会いがゴルフを強くした

しかし、生活をしていくためのキャディ業の傍らプロを目指すのは難しかった。

「ラウンド数も年20回くらい。体力があって、感覚もまあ持っているからショットはそこそこ打てるけれど、アプローチ、パターで崩れるという感じ。なかなか上手くいかないんです」

ゴルフを始めて6年、30歳の頃、生涯の宝となる”師匠”との出会いがあった。

「ゴルフが大好きな方で、練習場で知り合いました。"お父さん"と呼んでいます。ゴルフを一緒にしていただき、どうせやるならプロを目指そうと応援してくださった。そして、いろいろな職種の方々とラウンドして、こういう世界もあるんだと。プロテストを受ける研修会の話は聞いていましたけど、アマチュア競技を知らなかったんです。ゴルフって特殊ですよね。アマとプロの世界があって。でも、相手が私のプレーに惚れ込んでくれて、またゴルフしようねと言ってもらえたり。社会的な礼儀なども教えていただいた感じです」

キャディは38歳まで続けた。本格的に競技に出始め、すぐに全国大会の常連となった。40歳くらいからはシャフト会社に勤務。

「ゴルフは続けていたんですけど、42~44歳あたりでバイオリズムが下がる時期があり、体調も崩したんです。でもずっと関東~全日本と順位は悪くても試合には出てはいた。女性っていろいろな変化があって体調に左右されます。走り回っていたキャディをやめて、室内業務についてからは余計に、かな。生活スタイルなど何もかも変わったし、筋肉も落ちて、痩せたねって言われていました」

しかし、経験の根は、人生という幹を支える。根っからのアスリート。それは、物事に向かう姿勢にある。いくつもの壁を人との出会いを糧に自らの手で乗り越える。

「50歳になって少し体に安定が見られて。ちょっと私若返った? やるか! とその気になってきた(笑)。主人も体のケアをしてくれるんですよ」

(文中敬称略・後編へ続く)

THANKS/久邇カントリークラブ PHOTO/Shinji Osawa

※週刊ゴルフダイジェスト2023年4月25日号「令和のスーパーアマ 近賀愽子~ビルドアップ”黒ティー”レディ」より

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