今から93年前の1930年に兵庫県・市川町で国産初のアイアンヘッドが誕生した。現在でも、その技術を継承した職人たちが、同じ町でアイアンを作り続けている。
画像: 刀鍛冶の技術を応用した鍛造製法で国産初のアイアンヘッドは作られた。鉄を焼き、叩き鍛えることで鍛造ヘッドが作られていく

刀鍛冶の技術を応用した鍛造製法で国産初のアイアンヘッドは作られた。鉄を焼き、叩き鍛えることで鍛造ヘッドが作られていく

廣野GCがきっかけだった

1903年に日本初のゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部が開場したが、クラブはすべて海外から持ち込まれ、とても貴重で高価なものだった。神戸GCでキャディをしていた宮本留吉はクラブを買うことができないので、曲がった木を削ってヘッドに似た物を作り、穴を開け、シャフトにはつるはしの長柄を細く削って取り付けた、と「神戸ゴルフ倶楽部史」のなかで回想している。だが、鉄でできたアイアンヘッドはそうはいかない。

廣野ゴルフ倶楽部の建設計画が持ち上がり、準備が進められていた1928年。コース管理に必要な備品を国内で開発すべく、兵庫県工業試験場三木分場にグリーンのカップを切るホールカッターが持ち込まれた。このときアイアンのヘッドも一緒だったが、それに興味を示したのが研究員だった松岡文治。自分たちの手でアイアンを作れないものかと、旧知の鍛冶工・森田清太郎に製作を依頼する。

この森田清太郎が工場を構えていたのが、現在の兵庫県神崎郡の市川町だった。だが、アイアン製作の資料はどこにもなく、福井覚治や宮本留吉など、当時のプロの助言をもとに試行錯誤を繰り返すこと2年。刀鍛冶の技術を応用した鍛造製法で、ようやく量産化に成功したのは1930年のことだった。

戦後の高度経済成長とゴルフの大衆化に伴い、ゴルファー人口は急増し、クラブの需要も飛躍的に増加。市川町を中心とした姫路エリアのアイアンヘッドは全国生産量の約4分の3を占めるまでになり、アイアンヘッドといえば「姫路物」とまで言われるようになった。

その後、「ロストワックス製法」(鋳造)が主流になるが、現在でも、軟鉄鍛造の打感の良さを求めて、多くのゴルファーが市川町で作られたアイアンを愛用している。市川町は兵庫県のほぼ中央に位置し、姫路市の中心部まで30~40分ほど。三浦技研、藤本技工、共栄ゴルフなど、現在でも約20社ものゴルフ関連業者があり、国内だけでなく海外からも高い評価を受けている。

週刊ゴルフダイジェスト2023年8月8日号「ニッポンゴルフ初物語」より

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