ゴルフコース設計者協会は発足30年を記念して戦前戦後に活躍したコース設計者20名の殿堂入りを発表した。まずは日本のゴルフ草創期の4名を紹介する。
画像: 草創期の設計者のひとり、アリソンは廣野ゴルフ倶楽部の設計も手掛けた

草創期の設計者のひとり、アリソンは廣野ゴルフ倶楽部の設計も手掛けた

日本のゴルフ草創期は、海外でゴルフを経験した知識人が帰国後、自らコースを造っていた。そのため基本的には「見よう見まね」で、戦略性などの理念はさほど高くはなかった。だが、1930年末に来日したチャールズ・H・アリソンにより近代的コース設計、造成を目撃した日本のゴルファーたちは驚くと同時にその技術を巧みに吸収し、コース設計者が続々と誕生した。

コース設計者の殿堂入りについて(川田太三・日本ゴルフコース設計者協会理事)

日本ゴルフコース設計者協会は2023年で30周年を迎えました。

これを機に長年の構想であったコース設計家の殿堂入りを確定し、多くの方々に日本のゴルフコースに興味を抱いていただきたいと思いました。 

現在、日本国内には2000を超えるコースがあります。

一般的に知られているコース設計家といえば井上誠一、上田治の二人ではないでしょうか。しかし、日本のゴルフ草創期からコース設計に携わってきた人物はもっと多く、設計コースの多い、少ないにかかわらず、それぞれに特徴があり、個性的でもあります。 

作業を始めてみると、人選の難しさに直面しました。時代で区切るか、年齢にするか、何人選ぶのかなど悩ましく、今回は20名といたしました。

また、長年、通称で呼ばれていた設計者もいて、正しい呼び方が不明な方も何人か存在しました。ゴルフは他のスポーツと異なり、プレーをするコースには規定がありません。

7000ヤードを超えるコースがあるかと思えば、6000ヤード台のコースもあり、またパー72という規則もありません。それだけに選定することが難しく、加えて個性的なコース設計家を評価して厳選するのは苦渋の思いもありました。

今回は20名を選定して殿堂入りとしましたが、協会としてもさらに資料を集め研究、勉強会を行うことを定例化させていき、毎年、数名のコース設計者を選定し、殿堂入りさせて次世代につなげていく予定でいます。

ゴルフ草創期の4人の設計者

画像: チャールズ・ヒュー・アリソン

チャールズ・ヒュー・アリソン

近代的コース設計の基礎技術を日本にもたらした
チャールズ・ヒュー・アリソン(1882~1952)

オックスフォード大で造園学を学んでいる。

全英アマチュア、英米アマチュア対抗戦などの代表選手としても活躍しイングランドアマを2回制覇している。

東京GCの移転に伴い招聘され1930年に来日。東京GC朝霞を設計したほかに廣野GC、川奈の富士Cなども設計。地質調査、コース構築、灌漑、芝の管理、散水など日本のゴルフ界にもたらした功績には大きいものがある。

画像: アリソンが設計した川奈ホテルGC富士コース 18H・6701Y・P72

アリソンが設計した川奈ホテルGC富士コース 18H・6701Y・P72

アリソンが設計した川奈ホテルGC富士コース:アリソンが検分した時点で6ホール造成されていたが、全面的にルーティングが変更され現在の姿になった。3番ホールのクロスバンカー、7、17、18番のガードバンカーは深くゴルファーを悩ます。

主な設計コース:東京GC朝霞(1932)、廣野GC(1932)、川奈ホテルGC富士(1936)、改造勧告/霞ヶ関CC東、藤澤GC、鳴尾GC、茨木CC西

画像: 大谷光明

大谷光明

英国留学後アマとして活躍し、日本のゴルフの基礎を築いた
大谷光明(1885~1961)

浄土真宗西本願寺21世門主の3男として生まれ、明治40年から3年間英国に留学し、その時に覚えたゴルフは日本のゴルフ草創期に大きな影響を与えた。

大正13年JGA設立に尽力し、ゴルフ研さんを目的として翌14年再度英国に赴きコース設計の技法を学んだ。

東京GC(駒沢)の移転に伴い、新コースの設計を巨匠ハリー・コルトに依頼した結果、チャールズ・H・アリソンを招聘。

画像: 大谷光明が設計した川奈ホテルGC大島コース 18H・5711Y・P70

大谷光明が設計した川奈ホテルGC大島コース 18H・5711Y・P70

大谷が設計した川奈ホテルGC大島コース:全長5711ヤードながら現代の道具を駆使しても簡単に攻略できない難しさがあるのは基本的な戦略性が高いからだろう。アリソンは川奈滞在中に井上誠一をキャディにして大島コースをプレーしたとされている。

主な設計コース:東京GC(1914)、川奈ホテルGC大島(1928)、名古屋GC和合(1929)、箱根湯の花G(1952 )、大箱根CC(1954)、加古川GC(1957)

画像: 赤星六郎(左)

赤星六郎(左)

プロよりも強く、ゴルフ技術の向上に多大な貢献
赤星六郎(1898~1944)

兄・四郎より3歳年下で、米国のプリンストン大に留学。

1924年3月パインハーストCCで行われたスプリングトーナメントに出場し見事優勝。帰国後、四郎と共にゴルフ界の発展に尽くした。

1927年の第1 回日本オープンでは2位の浅見緑蔵プロを10打引き離してアマチュア優勝を果たしている。

1930年に来日したC・H・アリソンの通訳として行動を共にし、多くの知識を吸収。

画像: 赤星六郎が設計した相模GC 18H・6639Y・P72(Aグリーン)

赤星六郎が設計した相模GC 18H・6639Y・P72(Aグリーン)

赤星六郎が設計した相模GC:相模湾からの風が吹く平坦な原野をリンクスに見立て、66個のバンカーで変化をつけた。「幾何学的ではなく芸術的なものに夢と理想を込めた」と語っている。

主な設計コース:我孫子GC(1930)、相模GC(1931)、藤澤CC(1932 )

画像: 赤星四郎

赤星四郎

米国留学後に草創期だった日本のゴルフ界を牽引
赤星四郎(1895~1971)

薩摩の富豪赤星弥之助の4男として生まれ、麻布中学卒業後に米国に留学し、ペンシルベニア大でアメリカンフットボールの選手として活躍した。

帰国すると日本ゴルフ界向上のために力を注いだ。1926、28年日本アマに優勝。

コース設計理念は「地形、高低差がコースの命」「アンジュレーションこそがゲームそのもの」だった。

画像: 赤星四郎が設計した富士CC 18H・6832Y・P72

赤星四郎が設計した富士CC 18H・6832Y・P72

赤星四郎が設計した富士CC:箱根の裾を巧みに生かして造られたコースは変化に富み、高い戦略性を備えゴルファーの技量が試される。豪快な13番ホールは印象的で景観も優れている。
戦前の設計に函館GC、仙塩GC、熱海GCなど。主な設計コース○函館GC(1927)、霞ヶ関CC東(1929・共同)、仙塩GC浦霞(1935)、熱海GC(1939)、箱根CC(1954)、富士CC(1958)など

※週刊ゴルフダイジェスト2024年1月30日号「発表! 殿堂入りコース 設計者20名」より一部抜粋

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