ゴルフコース設計者協会は発足30年を記念して戦前戦後に活躍したコース設計者20名の殿堂入りを発表した。2回目は井上誠一や上田治ら全国に人気コースを多く生んだ6人の設計者を紹介する。
画像: 井上誠一が記した「コース設計の心構え」

井上誠一が記した「コース設計の心構え」

画像: 井上誠一

井上誠一

建設地の特性を吟味したうえで独特の美意識で戦略性を高めた井上誠一
(1908~1981)

高校時代に嗜眠(しみん)性脳炎を患い叔父の井上達四郎に、「治療と運動にはゴルフが良い」とアドバイスされゴルフを始める。

川奈ホテルに滞在していた時にチャールズ・H・アリソンと出会いコース設計に興味を持ち、後にコース設計を職業とした。

アリソンの図面を熟読、研究し、東コースを改造中のジョージ・ペングレースの作業をつぶさに観察することでコース設計の知識を蓄えていったという。

画像: 井上誠一が設計した龍ヶ崎CC 18H・7302Y・P72(Oグリーン)

井上誠一が設計した龍ヶ崎CC 18H・7302Y・P72(Oグリーン)

井上誠一が設計した龍ヶ崎CC:地形を巧みに生かしてレイアウトされたコースは、変化に富むだけではなく、高い戦力性も誇る。各所に設計者井上誠一のゴルフ理念が存在し、ゴルファーに程よい緊張と技量を求める造りになっている。

◆主な設計コース:霞ヶ関CC西(1932)、那須GC(1936)、川崎国際生田緑地G(1952)、山口CC(1952)、大洗GC(1953)、愛知CC(1954)、日光CC(1955)、西宮CC(1955)、龍ヶ崎CC(1958)、鷹之台CC(1958)、札幌GC輪厚(1958)、武蔵CC豊岡(1959)、枚方CC(1959)、大利根CC(1960)、桑名CC(1960)、茨木CC西(1961)、湘南CC(1961)、よみうりGC(1961)、戸塚CC西(1962)など

画像: ハリー・C・クレーン(左)とジョー・E・クレーン(右)

ハリー・C・クレーン(左)とジョー・E・クレーン(右)

戦略性を設計理念としてゴルフ草創期から活躍
ハリー・C・クレーン(1879~1969)&ジョー・E・クレーン(1892~1980)

貿易商だった父と共に横浜から神戸に移住したのが明治32年。8人兄弟の次兄ハリー、四男バーティ、末弟がジョーで鳴尾GC創設会員38名の中に3兄弟が含まれている。

鳴尾浜から移転した鳴尾GC猪名川の設計はハリーを中心としたクレーン兄弟によるものだ。ジョーは名テニスプレーヤーでもありテニスでは関西シニア、関西グランドシニアに優勝し生涯24コースを設計。

画像: ハリー・C・クレーンが設計した鳴尾GC18H・6616Y・P72

ハリー・C・クレーンが設計した鳴尾GC18H・6616Y・P72

鳴尾浜にあったコースの移転に伴い、猪名川渓谷沿いの現在地にハリー・C・クレーンの設計で1930年10月に開場。31年に訪れたC・H・アリソンは4、10番を除く16ホールの改造を勧告している。

ジョー・E・クレーンは千刈CCなど、主に関西地区で24コースを手掛けた。

◆主な設計コース:ハリー・C・クレーン/鳴尾GC(1930) ジョー・E・クレーン/垂水GC(1920)、岡山霞橋GC(1930)、花屋敷GC(1959)、泉南CC(1960)、西宮高原GC(1961)、三好CC(1961)、大熱海国際GC(1961)、さなげCC(1964)、宝塚高原GC(1964)、千刈CC(1965)、日本ダイヤモンドGC(1965)、日清都CC(1966)、月ヶ瀬CC(1967)、穂高CC(1972)、三田レークサイドCC(1973)、MGM MANIWA(1973)、富士C明智GC明智(1974)、るり渓GC(1975)、こんぴらレイクサイドGC中・東(1976)、日本海GC稲葉山(1978)、篠山GC西(1980)

画像: 狭山GCを設計した小寺酉二(右)と左から所属プロの山本増次郎、三好徳行、細川護貞、鍋島直泰

狭山GCを設計した小寺酉二(右)と左から所属プロの山本増次郎、三好徳行、細川護貞、鍋島直泰

1グリーン主義ゆえに、ベント・高麗で1グリーンを造った
小寺酉二(1897~1976)

慶応大卒業後にプリンストン大に留学しゴルフ部に所属。

アマチュアゴルファーとして活躍し、昭和9年の日本アマでは赤星六郎に敗れている。戦後は相模CC、相模原GCで理事長を務め、JGAでは国際競技、ルールなどでゴルフ界を牽引した。

コース設計では1グリーンを主張し、相模原GC、狭山GCではベント芝と高麗芝による大きな1グリーンを実現して多くの人を驚かせた。

画像: 小寺酉二が設計した狭山GC 9H・3553Y・P36(東)9H・3581Y・P36(西)9H・3507Y・P36(南)

小寺酉二が設計した狭山GC 9H・3553Y・P36(東)9H・3581Y・P36(西)9H・3507Y・P36(南)

小寺酉二が設計した狭山GC:ほぼ平坦ともいえる地にレイアウトされたコースは、それぞれが個性的で多くの競技が行われ2016年には東、西コースを使い日本オープンが開催された。27年に日本女子オープンの開催が決まっている。

◆主な設計コース:軽井沢GC(1931)、相模原GC東(1957)、狭山GC(1959)、嵐山CC(1962)、鹿沼CC(1964)、東京五日市CC(1973)

画像: 藤田欽哉

藤田欽哉

アリソンの影響を受けて自然の造形を生かした
藤田欽哉(1889~1970)

大学卒業後にアメリカに留学。その後ニューヨークで貿易関係の仕事に就いていたが、この時代にゴルフに親しみ、帰国後に霞ヶ関CCの創設に関わった。

昭和4年に開場した霞ヶ関CC東は、会員により分担で設計されたが藤田が受け持ったのは6、8、16、17番ホールだった。

ちなみに東コースは来日中のアリソンにより改造勧告を受け、倶楽部はアリソンの申し出を快諾し改造を実施した。

画像: 藤田欽哉が設計した紫雲GC加治川コース 18H・6597Y・P72

藤田欽哉が設計した紫雲GC加治川コース 18H・6597Y・P72

藤田欽哉が設計した紫雲GC加治川C:日本海を望む海岸の松林にレイアウトされた加治川コースは、赤松でセパレートされ優れた景観を演出している。効果的に配されたバンカーなどにより戦略性も高く印象度は高い。

◆主な設計コース:霞ヶ関CC東(1929・共同設計)、那須GC(1936)、千葉CC野田(1954)、伊豆国際CC(1961)、東松山CC(1963)など。

画像: 上田治

上田治

大地を削って変化に富ませ高い戦略性を力強く演出
上田治(1907~1978)

茨木中学の時、背泳ぎ100メートルで日本記録樹立。20歳で極東オリンピック上海大会に出場している。

京都大で林業、造園を学び恩師の勧めで在学中に廣野GCの造成現場に助手として参加し、完成後はグリーンキーパーとして働いた。

ベルリンオリンピックでは水泳の審判として参加し、競技後に9カ月にわたり欧米のコースを視察。この時に得た知識がコース設計につながったといえる。

画像: 上田治が設計した小野GC 18H・6935Y・P72

上田治が設計した小野GC 18H・6935Y・P72

上田治が設計した小野GC:設計者上田治は大きな鴨池を利用して18ホールをレイアウト。当然池が絡むホールは多いが、なかでもアウトの7、8、9番ホールは池越えとなる。特にグリーン手前にも池がある9番は、刻むか攻めるかの選択を迫る難ホール。

◆主な設計コース:門司GC(1934)、大阪GC淡輪(1937)、森林公園G(1955)、古賀GC(1956)、下関GC(1956)、白浜GC(1956)、佐世保CC石盛岳(1957)、奈良国際GC(1957)、GDO茅ヶ崎GL(1957)、松山GC川内(1958 )、飛鳥CC(1959)、緑ケ丘CC守山(1959)、若松GC(1959)、箕面GC(1960)、茨木国際GC北(1960)、岐阜CC(1960)、宇部72CC阿知須(1960)、四日市CC(1960)、小野GC(1961)、よみうりCC(1961)、小倉CC(1961)、樽前CC南・中(1962)、茨城GC(1962)、米子G(1963)、広島CC八本松(1963)、出水GC(1963)、熊本中央CC(1963)、長良川CC(1963)、小郡CC東(1964)、新居浜CC(1964)、別府国際GC扇山(1964)、岐阜関CC(1964)、長崎国際GC(1964)、宇治CC(1965)、名四CC(1966)、武庫ノ台GC(1966)、橋本CC(1966)、長岡CC(1966)、奈良万葉CC(1967)、賢島CC(1969)、奈良CC五條(1969)、大山GC(1970)、小野東洋GC(1971)、有馬ロイヤルGC(1972)、塩嶺CC(1973)、花屋敷GCよかわ(1973)など。

※週刊ゴルフダイジェスト2024年1月30日号「発表! 殿堂入りコース 設計者20名」より一部抜粋

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