ソニーオープンで惜敗したアン・ビョンフンは「のんきさ」が魅力!?
24年は五輪イヤーですが、五輪と聞いてすぐに脳裏に浮かぶのがアン・ビョンフンです。先のソニーオープンでは、プレーオフ1ホール目で1m強のショートパットを外し、約12mのバーディパットをねじ込んだグレイソン・マレーに優勝を奪われました。これで通算5度目の2位。
五輪イヤーに念願の初優勝が期待されます。
「五輪がなかったらボクは生まれてこなかった」と、本人が言うように、卓球選手だった韓国人の父と中国人の母は、ソウル五輪に先立つ86年のアジアカップで出会いました。88年の同五輪で父は銅、母は銀と銅メダルを獲得します。
そして結婚、生まれたのがビョンフンです。彼はゴルフが112年ぶりに正式競技となったリオ五輪で、韓国代表として戦いました。
彼の生年月日は(石川)遼くんとまったく同じで32歳。本人曰く、アスリートの両親に対し、動きも鈍く太っていてスポーツが得意ではない少年だった自分が唯一できたのがゴルフ。
15歳で渡米、IMGアカデミーにゴルフ留学します。17歳になると全米アマで優勝、今も破られていない史上最年少記録です。当時、本人は「こんな大きな大会で優勝できる選手ではない」と語っていましたが、翌年もセミファイナルに進出するなど、この時期に腕を磨いたようです。
高校を卒業するとカリフォルニア大バークレー校に進学。マックス・ホーマやコリン・モリカワの出身校で、文武両道の大学としても知られています。しかし勉強とゴルフの両立が難しかったのか1年で中退。11年、20歳でプロ転向しました。PGAツアーのQスクールで失敗したため、欧州ツアーに挑みます。12年から2部ツアーで戦い、3年かかってレギュラーツアーに昇格。
ルーキーイヤーとなった15年にはBMW PGA選手権を制し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。世界ランクも50位以内に入り、16年にはPGAの挑戦権を得ます。そのチャンスを生かしてシード権を獲得、17年からは晴れてPGAのメンバーとなりました。
優勝こそありませんが、16年のリオ五輪に続き、19年にはプレジデンツカップにも選出されました。その間、結婚して子どもも生まれ、順風満帆な人生を歩んでいるかに思われました。ただ、さらなる高みを求めたのでしょう。
21年からショーン・フォーリーとスウィング改造に取り組みます。実はSNSでのフォーリーの投稿には、一緒にやり始めていきなりシードを落とし、結果が出なかったことですごく悩んだとあります。
22年にコーンフェリーで勝った際にはSNSで、「バンカーズアワー」と銘打ち、銀行の営業時間である8〜17時すべてを意味あるものにする、この内容の濃い練習スケジュールを構築したことが大きかったと語っていました。
でも、当のビョンフンは、仲睦まじい家族の写真をアップしたり、144位とまったく振るわず、入れ替え戦に向かう22年には絵文字を使って「頑張るぞ!」と、まったく深刻さを感じさせないのです。
そのうらやましいくらいののんきさが、ある意味、彼の魅力であり、強さなのかもしれません。
※週刊ゴルフダイジェスト2024年2月13日号「さとうの目」より