"下道&車中泊"で2100を超える全国のゴルフ場完全制覇に挑戦中の62歳の現役サラリーマン・木村公一さん。自身を漢字から「はむいち」と自己紹介する。漫画『釣りバカ日誌』のハマちゃんこと浜崎伝助が「釣りバカ」なら、はむちゃんは「ゴルフばか」。そんな「はむちゃん」の痛快(!?)ゴルフ人生を綴った「ゴルフばか日誌」の第8話目。今回は「一人ゴルフ」で会う同伴競技者によく質問される「ドラコン挑戦」をお届けします!
画像: ドラコン中部大会シニア部門で316ヤード飛ばしたときの認定証

ドラコン中部大会シニア部門で316ヤード飛ばしたときの認定証

1人予約の鉄板ネタ「ドラコン挑戦」

本連載のきっかけになった「週刊ゴルフダイジェスト」をお読みの方はご存じと思いますが、今年1月3日に母が急逝しました。正月休みを利用して12月29日から1月8日までに10コース攻略予定で広島~岡山へ遠征中の出来事でした。当然、遠征は中止、すぐ帰宅して通夜、告別式を行いました。その49日法要が先週末にあり、今回のラウンドはお休みに。そこで今回は、1人予約の同伴者によく質問される私の「ドラコン」挑戦の話をします。

ゴルフを始めたのは35歳のとき。仕事上の付き合いで無理矢理やる羽目になったのですが、スウィングは誰にも教わらず、自己流で、レッスン本やゴルフ雑誌を見て覚えました。そうしたレッスン本は引っ越しで処分しましたが、一時は部屋に千冊前後積んでいたくらいです。

ゴルフを始めて10年間はスコアよりも飛ばし優先、ドライバーの練習しかしなかったのですが、仲間内では飛ばすほうで、2002年7月23日には、栃木県の城山CC14番パー4,309ヤードを1オン、あわやイーグル逃しのバーディ、という経験も。それ以外にも、距離のないパー4ではよく1オンしていました。

ただ基礎ができていないので、曲がりはじめたら半端なく曲がり、隣のホールを越えたその先のホールまで曲がる始末でした。

当時、開催されていたゴルフダイジェストのドラコン大会には合計3回出場しました。最初が2002年8月4日で40歳のとき。会場は東名CCでした。ボールはすべてピナクル。市販の球で一番硬いと評判で、5分間の制限時間内に6球打って1番飛んだ球が記録されるというルール。フェアウェイの幅は40ヤードで、ド素人の私は、「あ~、場違いなところに来てしまったな」と内心で後悔しつつ、チョロ、ヒッカケ、テンプラ、スライスを、背後にいる飛ばし屋モンスターたちの冷ややかな視線を感じながら「記録ナシ」で終わってしまいました。当時、飛ばし屋モンスターたちの多くは50インチの長尺ドライバーを使っていて、対する私は45インチの市販品。いま振り返ると、そのときゴルフダイジェストのスタッフが、モンスターのドライバーと私のドライバーを並べて写真に撮ってくれたことが昨日のように思い出されます。

それでも懲りず2回目は翌2003年8月17日に同じく東名CCで。豪雨とアゲインストの強風のなか、出場者69人中、記録アリは13人のみ。当然、私も記録ナシ。そのなかで巽秀樹さんが290ヤード飛ばして優勝しました。2度参加して2度とも記録ナシに終わり、自分はドラコン大会に向いていないなと一旦は諦めましたが、東京勤務が終わって名古屋に戻り、しばらくしてから読んだ週刊ゴルフダイジェスト誌に、偶然、地元岐阜で中部地区大会開催の告知が出ていました。しかも私は45歳になっていて、シニア枠で出られるという。

ダメもとで、と自分に言い聞かせながら十分にまわし(名古屋弁で準備)をしてエントリーしました。2007年5月27日、会場は富士カントリー可児クラブ可児ゴルフ場。組合せの関係で私だけが女子の野口涼さんと交互に打つことになり、野口さんは当時、名古屋商科大の女学生。いや~、女子大生より飛ばなかったら情けないがや!? と、年甲斐もなく気合が入りました。

先に打った野口さんが270ヤードを記録して、全国大会決勝進出を決め、大喜びで飛び跳ねた姿はいまも瞼に焼き付いています。彼女はいまもドラコン大会で活躍しているようです。

で、肝心の私は3発目に270ヤード、4発目に超フォローの風が吹いて、なんと316ヤード‼ いや~、天にも昇る気持ちとはこのことでしょう。めっちゃ嬉しかったです。

しかも終了間際までシニア暫定1位だったので、「もしかしたら?」という淡い期待も味わいながら待機(笑)。最後の最後に337ヤード飛ばした大前弘さんが1位、石田良介さんが317ヤードで2位となり、私は3位に。それでも十分満足でした。というのも石田さんは前年度の年間グランドチャンピオンで、その方と1ヤード差ならもって瞑すべし、だったのです。

画像: 2007年ゴルフダイジェスト ドラコン日本選手権の出場者募集ポスター

2007年ゴルフダイジェスト ドラコン日本選手権の出場者募集ポスター

私のドライバーはキャスコのパワートルネードで、ロフト角9.5度、長さ45インチのSシャフト、一般の市販品でした。一方、周りの飛ばし屋モンスターたちのドライバーはロフト角5度前後で、長さが48~50インチ、硬さはトリプルXとかで、鉄の棒みたいにまったくしなりのない特注品でした。私も特注品ならもっと飛ぶのではと思って、後日、大阪まで出かけて12万円の大枚を払い、特注で作ってみましたが、もともと基礎ができていない身とあって、そんな難しいドライバーが振り回せるわけもなく、まったくドライバーが打てなくなりました。

画像: ドラコンに熱中していた頃の私

ドラコンに熱中していた頃の私

まあ、よく考えたら、ドラコン大会で上位入賞の常連だった安楽拓也、山田勉、南出仁寛、和田正義、小達敏昭さんといったモンスターたちは軽く振って300ヤード、強振すると400ヤードを超す勢いで飛ばしていました。その飛距離を目の当たりにして、こりゃ死ぬほど練習しても追いつかんがや(笑)と、飛ばしを諦めました。彼らと自分を比べること自体、おかしいことだったのですが。

ようやく身の程を知って飛ばしを諦め、スコアメイクに目を向けて、その後、アプローチとパターばかり練習するようになり、50歳のとき、ハンディは10.7まで行きました。

しかし、ここでもやがて挫折します。どんなにスコアメイクのためにアプローチやパターを練習しても、サラリーマンの身では日本アマはおろか中部アマのチャンピオンになることも到底無理とわかったのです。

飛ばしもダメ、スコアでもダメ。私にとってゴルフで日本一になるのは夢の夢か......。

そういう落胆の淵で意気消沈して溺れそうになったときに浮かんだのが「日本のゴルフ場全制覇」という突拍子もないアイデアでした。

もちろん、それを思い付いた時点で、全国制覇を達成しているゴルファーはいました。となると、人がやっていないことで全国制覇するには何が必要か? そうだ「下道・車中泊」で日本一を達成するがや。

私がいま、「ゴルフばか」を自認しながら、家族から見放されても、なお全国制覇に邁進しているのは、そうした経緯があったからです。言い換えると、もうそれしか残っていないとも。いやホンマ、本人は必死でした(笑)。

まあ62歳にもなって毎週末、下道を走って全国のゴルフ場制覇という野望達成に向けた挑戦が続けられるのも、丈夫な体に産んでくれたお陰と母に感謝しながら49日法要を営みました。お母ちゃんありがとうよ。末期の水はとれなかったけど、これから先も天国からしっかり見とってチョーよ。

●今回の総走行距離、総経費ともゼロ。

今週は清里アーリーバードゴルフクラブ(長野県)を攻略予定です。

Arrange/Kenji Takahashi

This article is a sponsored article by
''.