「僕、中学校のとき、2限までしか行かせてもらえなかったんですよ」。それは祖父の利夫が掲げていた「圧倒的な練習量をこなすことがゴルフを上手くなるうえで必要不可欠だ」という信念のもと、毎朝行われる中学校の校庭での球打ちに加えて、秀憲に課したものだった。

練習のはじまりは地獄のパッティング練習

「キーン、コーン、カーン、コーン」

時刻は10時40分。2限の終了を告げるチャイムが鳴り響く。次の授業の準備をする生徒や廊下でお喋りしている生徒がいる中、荷物をまとめて秀憲は教室を出て行った。

「じゃあまた明日~」と友達に別れを告げ下駄箱へ向かう。靴を履き替え外へ出ると校門の前には利夫の車が待ち構えていた。祖父であり伊澤塾塾長の利夫だ。

秀憲にとってのチャイムは2限終了と同時に放課後活動の始まりを告げる合図だった。車に乗り込むと窓に映る景色には目もくれず学生服からゴルフウェアに着替える。30分ほどすると最初の活動場所となる磯子カンツリーに到着。トランクを開けてキャディバックを降ろしクラブハウスへ向かう。受付で「今日もよろしくお願いします!」と挨拶を済ませ、これから始まる長い放課後活動に備えて昼食をとった。

最初に行うのはパッティング練習。最終組が出るまでひたすらパッティンググリーンで球を転がした。

このパッティング練習は秀憲にとって、数ある伊澤塾の定番メニューのなかで一番きつく感じるものだった。「とにかくパッティング練習は練習時間が長いことに加えて、他のショットやアプローチよりも工夫できることが限られるので地獄でしたね」と当時を振り返る。

他の練習よりもやれることが少ないなかでも工夫をした。距離や傾斜が異なる場所からジャストタッチで打つことを繰り返すことでラインの見極め方を養った。

画像: 「工夫できることが限られていたパッティング練習はきつかった」と振り返る

「工夫できることが限られていたパッティング練習はきつかった」と振り返る

この地獄のパッティング練習が終わると日没までラウンドをする。内容は日没までに回れるだけ回るといういたってシンプルなものだった。ラウンドが終わると磯子カンツリーから利夫がスクールをやっている第百ゴルフ練習場へ移動し球を打ち続けた。

なぜここまでやるのか? それは利夫の「圧倒的な練習量をこなした者こそが強い」という信念からだった。事実として伊澤利光や西川哲、細川和彦、小山内護、立山光広といった数多くのプロを輩出し、その成功した要因を「圧倒的な練習量があったからだと思います」と秀憲も分析している。
そして自身も先輩と同じく日々、伊澤塾のひとりとしてゴルフのイロハを叩き込まれていた。

画像: 「これだけの練習量をやっていたから自信があった」と話す

「これだけの練習量をやっていたから自信があった」と話す

「叔父(利光)は学校を途中で切り上げて練習することはしてなかったみたいです。僕だけがやっていたみたいです」。この放課後活動は秀憲だけの特別メニューだった。

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