1960年代から2000年代初頭まで、50年の長きに渡って躍動した杉原輝雄。小柄な体、ツアーでは最も飛ばない飛距離で、当時トーナメントの舞台としては最長の距離を誇る試合で勝ったこともある。2打目をいちばん先に打つのだが、そのフェアウェイウッドが他の選手のアイアンより正確だった。ジャンボ尾崎が唯一舌を巻いた選手で、「マムシの杉原」、「フェアウェイの運び屋」、「グリーンの魔術師」「ゴルフ界の首領(ドン)」と数々の異名をとったのも頷ける話だ。「小が大を喰う」杉原ゴルフ、その勝負哲学を、当時の「週刊ゴルフダイジェスト」トーナメント記者が聞いた、試合の折々に杉原が発した肉声を公開したい。現代にも通用する名箴言があると思う。
画像: 肉体的ハンディを跳ね返すために、FWを積極的に使用していた※画像はドライバー(撮影/岡沢裕行)

肉体的ハンディを跳ね返すために、FWを積極的に使用していた※画像はドライバー(撮影/岡沢裕行)

凡人にできることは努力しかない

ーー「努力せぇへんかったら、ただのおっさんや。今頃どこかで人夫やってるのと違うやろか」

162センチ、55キロ、体格にも恵まれず、頭も悪くて、運動能力もたいしてない男が、こうして一人前でいられるんは、プロゴルフという職業があったおかげです。ファンがいてスポンサーがいて、トーナメントがあって、そこで勝てばお金も名誉も入ってくるんですよ。ありがたいっこちゃないですか。

何の取り柄もない男が、たまたまプロゴルファーになり、稼がせてくれるというのに、それに向かって努力せえへん者がいたら、それにボクは驚きますね。肉体的ハンディをはねかえすために、人様の何倍も努力するのは当たり前やないですか。

『努力こそ勝利への道』という、少々面映いタイトルの映画が制作されたんが、昭和39年。ランニング、練習場での打球、ボクの日常を淡々とありのままに撮影しただけで、何の演出もない映画でしたが、努力とはそんな地味なものだということで、嬉しく思った映画でした。

オフシーズンにトレやるのも当たり前のことですやろ。酒や女に溺れていては、1年のシーズンを乗り切ることなんかできんでしょう。体力アップや、技術を磨く努力もですが、もうひとつ大事な要素があります。それは家庭の円満。家庭にトラブルがあったり、夫婦仲がうまくいっとらんと、試合でそれが必ずきます。特に神経戦になるパットにおいて顕著にでるように思います。だから、円満な家庭生活を営む努力を出せなならんいうわけです。

プロになる前はこんなこと知る由もありません。あの時、プロゴルファーになることを目指さんかったら、今頃、人夫でもやってるただのおっさんになってるやろな思いますよ。

 

見栄を捨てることがスコアアップの近道

ーー「見栄がゴルフをこわすんやな。見栄を捨てた時から、本当の自分のゴルフが見えてくるんや」

ツアーでもいちばん飛ばんボクが、その頃、7000ヤードを超す、ツアー開催コースの中でもいちばん距離の長い橋本CC(1974年、日米対抗)で勝ってるんです。よく不思議がられたもんですが、これこそ見栄を捨てたことが勝利の一因なんや思いますよ。

米国の選手が飛ばすと第2打目はショートアイアン、ボクはロングアイアンになります。これじゃどうにもなりません。一計を案じて、ロングアイアンに代えて5番ウッド(クリーク)にしたんです。敵さんは9番アイアン、ボクは200ヤードをクリーク。クリークを使い始めたんは多分、ボクが初めてやろ。

ともかく、その頃は今のようにフェアウェイウッドやエキストラクラブに市民権はない時代です。ロングアイアンを使いこなすことこそが、プロの証やいう気風がありました。5番クリークなど女子供の使うもんだといわれたました。そやから、クリークを使うのには勇気がいりましたんや。ボクとてプロとしてのプライドがありますからね。しかしアイアンもキャビティなどはなく、鍛造のマッスルタイプですから、ボクら非力のもんにはボールなんか上がりゃしませんよ。

そこでボクは見栄はきっぱり捨て、クリークを作ってもらったわけです。これがまたボクの打ち方に合ったのか、敵さんのミドルアイアンくらいまっすぐ飛ぶんです。敵さんがロングアイアンなら、ボクのスプーン、クリークのほうが正確なわけです。そうなると敵さんは焦ってくるし、首ひねってばかりです。それに飛ばし屋ほど見栄っぱりなんですよ。ようけ自滅してくれました。

見栄を捨てて小が大を喰った例やと、今もそのことを誇りに思っています。

文/古川正則(ゴルフダイジェスト特別編集委員)

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