今週水曜から「みんなのゴルフダイジェスト」で隔週連載をスタートした桂川有人。そのインタビューの前に、懇意にしている週刊ゴルフダイジェストの女性編集Yに現在、過去、未来を語ってくれた。2024年6月18日号「週刊ゴルフダイジェスト」に掲載した記事を「みんなのゴルフダイジェスト」でも紹介しよう。
画像: いつも平常心の桂川有人

いつも平常心の桂川有人

2022年、プロ入り2年目で初優勝を挙げ、賞金ランキング5位となった桂川有人。その勢いのままPGA下部のコーンフェリーツアーのQスクールファイナル(当時)で45位タイに入り、昨年はそこを主戦場にした。しかし16試合に出場し、予選通過は8試合、最高位は13位タイという結果。

「コーンフェリーは、コースやグリーンのセッティングは簡単でも選手は皆レベルが高く、伸ばし合いの試合が多かった。しっかりバーディを取っていかないと離されていくという感じです」

簡単な状況で、どれだけシンプルにプレーするかは難しい。

「芝は日本とは違いますけど、そこまで難しいとは思わなかった。でもパッティングに苦しんでしまったんです。ショットは全然負けていなかったと思いますが……」

「もっとやれた」という気持ちしかなかった。

「でも結果がすべて、それが実力なので。いい状態にもっていけなかった自分が悪いんですけど」

そして今シーズン、気持ちを切り替えて日本でしっかり結果を出そうと決めて臨んでいた。

「一番は体づくりから。オフもウェイトトレーニングを中心にけっこう取り組みました。人間としての体を強くするためにやっていたんです」

もちろん、PGAツアーへの再チャレンジにつなげるためだ。

「まずは行きやすい欧州を狙って、賞金王、もしくはランク2位にはならないといけない。最低でも優勝はして、QTに挑戦できるくらいに頑張りたいなと思っていなました。久常(涼)選手の活躍も刺激になりましたし、ずっと戦われている川村昌弘さんもすごいなあと思っていたんです」

桂川有人の国際感覚と不思議なたくましさは、中学卒業後にフィリピンのマニラ近郊にゴルフ留学した経験からも生まれている。

「地元愛知県内の高校へ進学が決まっていたんですけど、練習しているときに声を掛けてくださった方が、日本とフィリピンで仕事をされていて、フィリピンのメンバーコースへ一度ご招待くださった。そうしたら向こうの環境が素晴らしくて。現地に移住されていた日本人の方が、もし来るなら面倒を見るとおっしゃってくださったので留学を決めました」

フィリピンでは自由にゴルフができて、自分のやりたいように練習させてもらえる環境だった。フィリピンの国内プロ選手とも一緒にプレーしたり、朝から晩まで球を打ち、腕を磨いた。

「裕福な家庭ではなかったので、毎週土・日にラウンドするとか毎日練習場で球を打つとかは難しかった。試合も、全国大会に出場するとなると平日に母が仕事を休まないといけないからほとんど出たことがなかった。それがフィリピンでは好きなだけゴルフができて、なんて幸せなんだろうって(笑)」

桂川は母子家庭で育った。それを隠さないし、それも自分の強みにしているようだ。

「祖父母が僕を預かってくれることが多かったんです。おじいちゃんがゴルフ好きのクラチャンで、僕は3歳から練習場に付いていっていた。おじいちゃんがレフティで向かい合って球を打つようになって、鏡のようにスウィングをマネしていました」

プロを目指すと言えるような家庭状況ではなかったが、テレビで石川遼を見て憧れ、初めて将来のことを思い描いた。

画像: ひと回り体も大きくなった。「筋力をつければ人は強くなる。それが飛距離アップにもつながりますから」と桂川

ひと回り体も大きくなった。「筋力をつければ人は強くなる。それが飛距離アップにもつながりますから」と桂川

「正直に言うと、勉強も好きではないし、サラリーマンができる自信もないし、将来が不安だったんです。好きなことといったら体を動かすスポーツくらいだったので、ゴルフを本気でやろうかって。ゴルフを仕事にできたら最高だなって、フィリピンで夢が少しずつ目標に変わっていきました」

プロ初勝利後のインタビューでもいろいろな人への感謝を口にした桂川。

「お世話になったたくさんの周りの人のためにもいい結果を出したいという感謝が、心のどこかにはいつもあるから、それが力になっているんだと思います」

昨年はアメリカを、基本ひとりで回った。キャディもツアーが紹介してくれた人にお願いした。

「英語がそんなに話せるほうではないので、飛行機なんかのチェックインなどで不安でした。食事も基本ひとりで、たまに大西魁斗と食べるくらい。でも、ひとりっ子なので、そこまで寂しくはなかった。そのへんは強いかもしれないです。日本より値段も高いのでかえってひとりでよかったかも。韓国料理をメインに、ハンバーガーとステーキと中華をぐるぐる回して食べていたんです」

トレーニングは、日本と同じようにエニタイムフィットネスを利用、ホテルにもジムがあるので、かえって充実していたという。時間があるときは、ネットフリックスで大好きなプロレスを見たりしていた。

「そういえば(プロレスラーの)オカダカズチカさん、今年からアメリカに行かれましたね。昨年だったら、僕、アメリカで試合が見られたかも(笑)」

優勝したISPS HANDAは、「こんなチャンスはない」と挑んだものの、予選落ちギリギリで余裕はなかった。

「自分はいつも通りやっていたんですけど、上のスコアが伸びていなくて正直びっくりしました。でも、優勝は自信になります。ゴルフ自体ははまだまだですけれど……。ツアーメンバーになると優勝した試合のポイントも入るので、欧州に絞った挑戦に決めたんです」

目標はもちろん、賞金ランキングで有資格者を除いた10位以内に入り、PGAツアーに行くこと。

欧州のコースの経験は、23年の全英オープンで初めて海外メジャーに出場したときの“聖地”セントアンドリュースのみだ。このときは、幸せな気分で、夢のなかにいるようだった。

「雰囲気が独特のおごそかな感じで、コースもリンクスで日本では味わえない。練習ラウンドしたときは、とんでもない難しいところに来た。せめてビリにはならないようにと思ってしまって(笑)。初日は開き直って、目の前の球を打つことしかできないから必死にいくぞと自分を鼓舞しました」

ここでもしっかり予選を通過するあたりが、桂川のたくましさだ。

「テレビで見ていた世界のトップ選手もいて、だけどそれにビビッてしまうのではなく、実際に試合の空気感を肌で感じて、いつかは自分もここにいるのが当たり前というような、この一員になれるよ
うになりたいと思いました。アプローチで世界との差を実感させられた。彼らはいろいろな寄せ方を身に付けているし、狙ってチップインもしてくるんです」

アメリカから帰ってきて、人生で初めてコーチを付けた。日大の先輩でもある目澤秀憲氏だ。パッティングは、アドレスやアライメントから見直した。

「ずっと1人でやっていて、今は目澤コーチが見てくださっているので、もう1回イチから作り直したんです。1つずつ確認してつぶして、自然とよくなった感じです。入れたい気持ちが強くなって
手が動かなくなったりしたんですけど、その欲も抑えられてきました」

日大では同期で寮の同部屋だった清水大成をはじめ、多くの仲間や同志を得た。

画像: 優勝したときはパッティングも光っていた

優勝したときはパッティングも光っていた

「高校時代にフィリピンにいたので、そのままアジアンツアーへ行くという選択肢もあったかもしれません。でも単純に同年代の日本人の友達がいなかったので(笑)。日大では、同じプロを目指す先輩や同級生がいて、お互いに切磋琢磨できた。大学に行ってよかったです」

ひとりで淡々と、しかし、知らぬ間に周囲の力を取り入れてしまうところも桂川の強さだろう。

欧州には、準備も心構えもなく、自分の身ひとつ“そのまま”で行こうと考えている。

「僕は部屋でゆっくりしたいタイプなので、観光などは余裕ができたら考えたいですね。でも全部、良い、面白そうなコースでプレーできるので楽しみです」

今年大活躍している“欧州組”の存在も心強い。どこでもやっていけそうだと言うと、「そうですね、他の人よりはイケるのかもしれません」と笑う桂川。

この話を聞いた時点では、今年の全英オープン出場の資格はなかったが、「優勝した資格でほとんどの試合には出られる。全英オープンに出られなくても、その裏の試合がヨーロッパとアメリカの共催の試合。ここで優勝したらいきなりPGAのシード選手になれますから。チャンスはどこにでもある。そこでどこまで頑張れるかという感じですね」と答えていたが、ミズノオープンで3位に入り、全英オープン出場権もゲット。

尊敬するプロレスラー、内藤哲也氏の決め言葉よろしく、「トランキーロ! 焦んなよ」。チャンスを1つずつつかんでいく桂川は、ヨーロッパ大陸で、台風の目になるに違いない。

PHOTO/Hiroaki Arihara、Tadashi Anezaki

週刊ゴルフダイジェスト2024年6月18日号「桂川有人、ヨーロッパ参上」より

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