週刊ゴルフダイジェストのレッスン企画などで、たびたび雑誌に登場してきた久古千昭プロ(59)から電話がかかってきた。聞けば「俺、ガンやっちゃって。今、タクシーに乗っているんだよ」と言う。コロナ禍もあり、小誌でもレッスンを頼んでいなかった時期だったが、そんなことになっていたとは。「今はすっかり体調もいいので、タクシーのご用命があればよろしく!」と明るく言う。後日、タクシーを呼び、ちょっとレアな“車内インタビュー”を敢行した。
画像: バイクレーサーになって、不動産業からプロゴルファー、そしてタクシードライバーに転身した久古千昭

バイクレーサーになって、不動産業からプロゴルファー、そしてタクシードライバーに転身した久古千昭

バブル時代の不動産業でゴルフと出合う

久古は1965年横浜市生まれの千葉育ち。父親は横浜で電気屋を営んでおり、のちに千葉県の成田で不動産会社を経営するようになった。

久古少年は、ちょっと変わった子だった。周囲の子どもたちがプロ野球に夢中になっている頃、大好きになったのがモータースポーツ。特に、日本にブームが来る前のF1だ。ジェームス・ハントとニキ・ラウダのライバル物語に胸を躍らせ「俺もレーサーになる」と思うようになる。

しかし、当時はインターネットもない時代、雑誌などで必死に情報を集めたが「4輪レースには恐ろしくお金がかかることがわかりました」。しかも久古の身長は188センチ。「4輪に乗るにはさすがに体が大きすぎる」こともネックになった。

その後「2輪なら」と思い付き、バイクに乗るように。友人を誘い、筑波サーキットでレースに出るようになった。情報源はバイク雑誌だ。サーキットのスケジュールやマシンのレギュレーションなどについての記事を読み漁った。

雑誌で「チーム員募集」の記事を見つけ、高校卒業後はレーシングチームの門戸を叩いた。「チーム員」はいい響きだが、仕事は厳しい。溶接をし、パーツを自作、朝から晩まで働き、時折レースに出た。

筑波サーキットが主戦場だが、あるとき、最終コーナーでのクラッシュでけがを負う。「ダメージが大きかったのはメンタルのほう。復帰はしたけれど、恐ろしさが出るようになって……」。バイクレースの世界を引退した際、久古は21歳になっていた。

その後、父の不動産業の手伝いをするようになった。時はバブル真っ盛りで「景気は良かったですね」。しかも、久古、不動産業に関わるからにはと宅建(宅地建物取引士)の勉強を始め、数カ月後にあっさり合格。

時代柄“リッチな”サラリーマン生活を謳歌した。ゴルフとの出合いもその頃。

「お客さんとの付き合いもあり、クラブのフルセットを買ったのが26歳の頃でした」

学生時代にゴルフ場でキャディのアルバイトをしたことがあったため、ゴルフをまったく知らないわけではなく、ルールなどは何となく知っていた。それでも技術的には初心者なので練習場へ。父親の知り合いというアマチュアゴルファーに握り方など基礎の基礎を習うとすぐコースに出た。

脱サラプロゴルファーとして活躍

画像: 男子ツアーに出場しながらドラコン大会やレッスン企画で人気を博した久古

男子ツアーに出場しながらドラコン大会やレッスン企画で人気を博した久古

「初めてのラウンドはコンペでしたが、103回でした」と言う。「で、次のラウンドは80台でした」

今より随分性能も劣るドライバーで「300ヤードは飛んでいました」。すると、初ラウンドでも一緒だったプロゴルファーに「『プロになれる』『ジャンボより飛んでいるぞ』などと言われて。当初は『お世辞で言ってくれているのかな』と思ったのですが……」。

久古の上達スピードが尋常じゃなかったことは確かだった。しかし、父に「プロゴルファーになりたい」と打ち明けると“勘当”処分と相成った。

久古青年は、レイクウッド総成カントリークラブ(現・PGM総成GC)の練習生となった。研修生ではなく、練習生だ。研修生になるには入会テストがあり、それをクリアするのが新たな目標になったが、1年後、無事に合格を果たす。

「合格がかかったパー4で12叩いたこともありました。OB4回(笑)。その日のスコアはワンバーディ、ワン12ですよ」

研修生として腕を磨き、4年後、プロテストに進む権利を得て合格。同期は立山光広や小山内護、今野康晴、河井博大らだ。1996年、久古青年は30歳になっていた。当時はバブルがはじけた直後で、まだその残り香のある頃。

「それでも試合が少しずつ減ったりして、時代の流れが変わっている感じがしました」

約10年、トーナメントの最前線にいたが、優勝の夢はかなわなかった。個人客へのレッスンもトーナメント参戦と並行して行っていたが「(レイクウッド)総成カントリーで研修生をしていたとき、コースでアルバイトしていた大学生が『週刊ゴルフダイジェスト』の編集者になったそうで電話をくれました。『久古さん、プロテストに受かったそうですね。うちの雑誌でレッスンしてくれませんか』と言われたんです」。

ジュニアゴルファー出身でないどころか、ゴルフを始めたのが26歳。サラリーマンの経験もあることから、久古のレッスンは“普通の”アマチュアゴルファーから「僕たちの気持ちをわかってもらえる」と高い支持を得る。

誰が言い始めたか愛称は“僕たちの久古さん”だ。久古自身、トーナメントの一線から退く際、小さい頃からゴルフをしてきた選手と「感性の違い」を感じたと言う。

ジュニア出身の同伴選手がグラスバンカーに入れた際、久古は「これは難しい」と思ったが、その選手はロブショットでフワッと出し、ベタピン。「58度か60度で出すだけだろうな」と思っていた久古は驚き「今、何度で打ったの?」と聞くと「アプローチウェッジです。何か寄る気がしたから」と、サラッと言われ「これはかなわない」と感じた。だから“感性を持たない普通のゴルファー”の気持ちがよくわかる。

生徒は口コミで増え、レッスンは好調だった。バイクレースをやり、不動産業をやり、プロゴルファーになり。いわゆるプライベートには気が回らないほどだったが、45歳で結婚。その後、二人の息子に恵まれた。「今、小3と5歳ですが、かわいくてかわいくて。甘やかしています(笑)」

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