
93歳の人生の幕を下ろした陳清波プロ
陳氏は1931年、日本統治時代の台湾淡水郡で生まれ、生家そばの淡水GCで働いたことから人生の道が開けた。22歳でプロとなり、先に来日していた同GCの先輩、陳清水を頼り、1954年、翌年と川奈ホテルGCでの修業のため日本の土を踏む。
1959年には東京GC所属となり、風の強い淡水で培われたダウンブローに磨きをかけた。ドライバーでもアイアンでも低い弾道で飛び出し、途中からグーンと伸びていく球筋。それにはひざの平行移動が要諦だと説いた。
話は前後するが、1957年、英国ウェントワースGCで行われたカナダカップに台湾代表として出場した時、憧れのベン・ホーガンを見て糧にしたという。東京GCに所属した年に日本オープンで初勝利したのを皮切りにレギュラー12勝、シニア入りして4勝。グランド、ゴールドシニアでも日本、関東のものは総ナメにしている。
ワールドカップに台湾代表として11回出場、マスターズには1963年から6年連続で出場し、全て予選を通過、最高成績は1963年の15 位であった。
これは本人から聞いた話──。ある年のマスターズ練習日、憧れのホーガンと回る機会に恵まれた。ホーガンは寡黙でラウンド中ほとんど喋らなかった。
ピンがグリーン左サイドに切られたホール。陳氏は右からドローボールでピンそばにピタリ。これを見たホーガンは「グッド」と一言。和製ホーガンと謳われた陳氏が、ドローボールヒッター本家から認められた一瞬だった。そしてドローボールの必須は「スクエアグリップ」ということを、陳氏は付け加えた。
陳氏が加齢してもショットメーカーであり続けた秘密を確認できたことがある。2000年、小社で製作したビデオ『ファンダメンタルズ』(VHS2巻)。結論を先に言うと、ドライバーからショートアイアンまでスウィングのテンポが全く同じだった。つまりドライバーでもショートアイアンでも、スウィングを重ねると“1つのスウィング"にしかならない。編集作業をしていて驚きであった。
1978年に帰化していて、本名は清水泰行。2014年日本プロゴルフ殿堂入り。台湾から裸一貫で来日し、時代の寵児となった陳氏、93歳の人生の幕を下ろした。合掌
(特別編集委員 古川正則)
※週刊ゴルフダイジェスト2025年2月11日号「バック9」より