プロになりたくなかったプロゴルファー、森道應が78年の生涯を閉じた。波瀾万丈の人生だった。小誌主催のレッスン・オブ・ザ・イヤー第2回(1988年)受賞者でもある。
画像: 名伯楽・森道應

名伯楽・森道應

森は1946年、名古屋市に生まれた。父・態應は6人の子どものうち4人の息子たちにゴルフをやらせた。四男の道應が14歳の時で一番上達が早かった。父・態應は鉄道作業の道具、自動車部品を作る2つの会社をつくって成功させた立志伝中の人物であった。

父の期待に添うかのように、森は高校3年の時、関西ジュニアで優勝。名商大に入学した年には中部学生で勝利。そして日本アマでは準決勝まで進む。大学3年での日本アマでは当時アマ界の至宝と謳われた中部銀次郎に決勝で敗れたものの、トップアマとしての地位を築く(日本アマの勝利は1976年、28歳まで待たねばならなかった)。

しかし、プロになる気は最後の最後までなかった。

「だって和合(名古屋GC)のクラブハウスなどプロは入れない。ランクを下げてまでプロになるつもりはなかった」と語っていた。そんな森を翻意させたのは……。

大学卒業後、父の死、結婚、そして東海テレビに4年半勤務した後に独立して旅行代理店を立ち上げた。その年に念願の日本アマにも優勝して順風満帆だった。

しかし、友人の借金の保証人になり自ら莫大な借金を負う。78坪の家と土地、家財と2台の車、2つのゴルフ会員権の全てをなくし、旅行代理店もつぶしてしまう。4人家族は2DKのアパート暮らしで、ある室内ゴルフ練習場で支配人を務めたが、それがアマ資格を問われてしまう。進退窮まった森はオレにはゴルフしかないと、プロ入りを決意するのだ。

しかし、このプロテストに初挑戦した時はすでに34歳。合格まで5回受験。「1勝したらトーナメントプロはやめよう」と思ったが、岡山オープンで優勝した後は、一般ゴルファーをレッスンすることを仕事と定めた。

その森のもとに訪ねてきたのが中学2年生の服部道子だった。服部の母親も日本女子アマに勝ち、同じくアマの世界で頂上に立った森にわが子を託したのだろう。服部はその後、全米女子アマに勝利し、日本女子オープンも取った。森は服部の天才を開花させた名伯楽としての名声も得た。

インストラクターとして経済的基盤も築き、9年間のアパート暮らしを終え、1989年には新築の大きな家に妻子をいざなった。波乱に満ちたゴルフ人生だった。 合掌

(特別編集委員 古川正則)

※週刊ゴルフダイジェスト2025年2月18日号「バック9」より

坂田信弘も陳清波も……

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