ゴルフコース設計の祖「A・マッケンジー」とは

アリスター・マッケンジー(1870年-1934年)
世界中には多くのゴルフ場があり、それらには必ず設計者がいる。
時代ごとに優れたコース設計者は出現するが、では誰が一番優れたコース設計者なのだろうか、と考えてみた。
コース設計の始祖はトム・モーリス・シニアだとされている。当時のコースはリンクスが主流で、海から吹き付ける強い風により砂が飛び、地形が変化する。芝の生えていない窪地はバンカーになる、というものだったが、トム・モーリス・シニアはその窪地を整えバンカーとし、ティーイングエリアを明確にし、芝の育成のためにグリーンに砂を入れることを考案した。
それでも、リンクスは基本的に「あるがまま」で海岸線に沿った砂の大地に違いなかった。
肥料、灌漑、土木工事、植栽など近代的なコース建設を実践したのは、ハリー・コルトだといえる。弟子には日本でもお馴染みのチャールズ・ヒュー・アリソンとアリスター・マッケンジーがいた。
マッケンジーは1909年故郷のリーズにムーアタウンGCを単独で設計。14年にアメリカのカントリーライフ誌が主催した「理想とする2ショットデザインコンテスト」に応募し、見事優勝。賞金を得たことが後に本格的なコース設計者を目指すことになった。
マッケンジーはケンブリッジ大で医学を学び、大英帝国陸軍の軍医として第2次ボーア戦争に従軍。この戦争で学んだのはカモフラージュだった。後日、コース設計に採り入れることになった。第1次世界大戦でも軍医として従軍した後にコース設計家となったがすでに50歳を過ぎていた。だがコース設計の依頼はなかった。1920年、ゴルフ建設に関する「ゴルフ設計論」を書き、評判は高く名著とされたがそれでもコース設計の仕事は舞いこんでこなかった。

ロイヤル・メルボルンGCはオーストラリア1番の名コースとして世界ランキングに名を連ねる。
失意といえる日々を過ごしていたが26年になるとオーストラリアからコース設計の依頼があり、ロイヤル・メルボルンGC西コース、28年キングストンヒースGC、ニューサウスウェールズGCを手掛けることになった。
現在、ロイヤル・メルボルンGCはオーストラリア1番の名コースとして世界ランキングに名を連ね高い評価を得ている。コースはメルボルン郊外に広がるサンドベルトに造られているが、サンドベルト=リンクスといえるもので、コース内の樹木を伐採したらその景観はリンクス同様になる。アメリカのパインハ―ストなども内陸部のサンドベルトに造られていて、やはりインランドリンクスといえるコースだ。

マッケンジーの傑作カリフォルニアの「サイプレスポイントC」
マッケンジーの傑作といえば、やはりカリフォルニアのサイプレスポイントCだろう。波が打ち寄せる太平洋に突き出した小さな半島状の部分にレイアウトされたホールと、松にセパレートされた内陸部のホールの組み合わせはかなり印象的で優れている。内陸部といってもサンド地帯でティーイングエリア、フェアウェイ、グリーンだけが緑の芝生、ラフは全て白い砂が剥きだしたままだ。

ドナルド・ロス
マッケンジーは海岸線、内陸部のホールともリンクスを意識して設計したといえる。スコットランド出身の設計家ドナルド・ロスも同様に、どんな地形でもイメージしているのは「神が造り給うたリンクス」だった。
彼らは「ゴルフというゲームはリンクスで行われるものだ。だからどこにでもリンクスを造る」という理念を持っていたのだろう。
マッケンジーが手掛け世界的に高評価を得ているロイヤル・メルボルンGC、オーガスタナショナルGCそしてサイプレスポイントCは紛れもなく「リンクス」だといえる。
歴史に「イフ」はないが、もし、アリソンでなくマッケンジーが来日していたら日本のコース設計は現在と大きく変わっていたのではないだろうか。そんな気がする。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中