タイの首都バンコク郊外に難易度の高いリンクスが出来て話題になっていると耳にした。設計は高評価のコースを手掛けているだけではなく、世界的な名門コースを数多く改修しているギル・ハンスだと分かった。しかも1917年チャールズ・ブレア・マクドナルドが手掛けたニューヨーク州ロングアイランドのリドーCCをオマージュしたというではないか。これは現地に飛ぶしかない、早速クラブを担いでバンコクに向かうことにした。

短いが左はほぼウェイストエリア、右は池で「ほっ」とできない
9番ホール/330・312・286ヤード
パー4(LEVEN)

デザインソースはスコットランドのランディンGC(1868年)の16番(311ヤード/パー4)。この16番は短めのパー4として優秀なホールとされている。

リドーCCでは9番(357ヤード/パー4)に該当し、ザ・ナショナルGLオブ・アメリカでは17番(360ヤード/パー4)だ。

ゴルファーに対して、飛距離を伸ばして大胆に攻めろと要求するが、狙い通りにならなければ2打目は緩やかなマウンドを越えて攻めることになる。

バリシアーGLの9番は、アウトで最も距離が短いパー4だから「ほっ」とでき、ホールアウトすればハウスに辿り着けるからLEVEN(生きる)と名が付けられたと思ったが、実はデザインソースのランディンGCがある地名からだった。

ホール左はグリーンまでウェイストエリアで、右側には池があり、その池がグリーン近くではクリークになる。やや打ち上げで距離は短く、ティーショットの狙いはフェアウェイ中央からやや左寄り。グリーンの大きさはかなり小さく感じる(9番グリーン/593m²)。

画像: 9番ホール/330・312・286ヤード/パー4(LEVEN)※写真上の右から左へ打っていく打ち上げのホールが9番

9番ホール/330・312・286ヤード/パー4(LEVEN)※写真上の右から左へ打っていく打ち上げのホールが9番

◆アウトコースで感じたこと

リンクスコース、それもかつてニューヨークにあったリドーCCをオマージュして造られたコースはかなりの難易度で、ゴルファーの挑戦意欲を打ち砕くも、それ以上に気分を高揚させてくれる。毎ホール、構えるたびに「右はいけない、左もダメだ」だが、では「自分の飛距離での安全ルートは?」と考えさせてくれるのがいい。

もちろん2打、3打目も同じ。むしろ、2打目以降の飛距離や方向性は、さらに精度の高いショットが求められる。ティーイングエリアからフェアウェイ、そしてグリーンまで一度も息を抜けない程よい緊張感を得ながらのプレーはかえって気持ちが良く、コース設計者のギル・ハンスに「挑んでいる!」、そして「負けてたまるか!」という感覚すら持った。

テンプレートされたプレストウィックGCや、セントアンドリュースを訪れたことがあるだけに、それを思い浮かべながらプレーを進めていくことは楽しい作業でもあった。ホールの距離などは異なるが、1911年のリドーCCで、その時のゴルファーは、何を思い、どのように攻めたのだろうか、プレー後に何を感じたのだろうか……そう考えるだけも心は限りなく、楽しく豊かになっていく。

1911年と2025年。時間の隔たりはあれども、挑戦するゴルファーとしての心模様は同じものだと、確信した。

コース設計の最先端を走る気鋭のコース設計家
ギル・ハンス
(Gilbert Hanse/1963~)

デンバー大学で学んだ後、コーネル大学でランドスケープアーキテクチャーの修士号を取得。奨学金を獲得してイギリスとアイルランドで1年間ゴルフコースの設計を学ぶ。

コーネル大学の同期生だったトム・ドークから仕事のオファーを受け、4年間一緒に働き、1993年独立。社内のスタッフにはかつて女子ツアーで活躍したプロのエミー・オルコットがいる。

2016年、リオ・オリンピックコースを手掛ける。オリジナルコース設計だけではなくメリオンGC、マイオピアハントC、オークランドヒルズCC、ロサンジェルスCC、サザンヒルズCC、ウィングドフットGC、バルタスロールGCなど珠玉といえる名門コースを多く改修している。

画像: ギル・ハンス(Gilbert Hanse/1963~)

ギル・ハンス(Gilbert Hanse/1963~)

ちなみにマイオピアハントCでは過去に4回全米オープン(1898、1901、1905 、1908年)を開催しているが、いずれの大会もアンダーでプレーした選手は皆無だったという超難関コースだ。

ギル・ハンスが描いた
バリシアーGLの
1~9番ホール設計図

2007年世界ゴルフ殿堂入りした“アメリカゴルフコースの父”
チャールズ・ブレア・マクドナルド
(Charles Blair Macdonald/1855~1939)

カナダのナイアガラフォール生まれで、父はスコットランド人、母はモホーク族系カナダ人。1872~74年、スコットランドのセントアンドリュース大学に留学。

画像: チャールズ・ブレア・マクドナルド(Charles Blair Macdonald/1855~1939)

チャールズ・ブレア・マクドナルド(Charles Blair Macdonald/1855~1939)

オールド・トム・モリスからゴルフを学び、セントアンドリュース(オールド)、ノースベリック、プレストウィックなどのリンクスに感銘を受けた。帰国後は株式のブローカーとして成功したがこの時期はほとんどゴルフをせず、本人曰く「暗黒の時代」だったと語っている。1900年ニューヨークに移りチャールズ・D・バーニー社の共同経営者(後のモルガンスタンレー)になった。

1911年ザ・ナショナルGLオブ・アメリカを完成させ、コースがあるサウサンプトンに移住している。

比類のない画期的なアイデアでコースをデザイン
セス・ジャガー・レイナー
(Seth Jagger Raynor/1874~1926)

プリンストン大学で土木工学を学んだが1898年退学し、土木技術者として働く。

チャールズ・B・マクドナルドが、ザ・ナショナルGLを造る時に測量技師として働き、以降、マクドナルド設計コースの現場監督として13年間で約85コースに関わった。レイナー単独設計ではパイピングロックC(1911年)、ウエストハンプトンCC(1915年)、ショアエ―カーズCC(1921年)、フィッシャーズアイランドCC(1926年)などがある。

画像: セス・ジャガー・レイナー(Seth Jagger Raynor/1874~1926)

セス・ジャガー・レイナー(Seth Jagger Raynor/1874~1926)

独創的な発想によるコース設計をしているが、マクドナルドに会うまでゴルフとテニスボールの区別さえできなかったとされ、生涯アベレージゴルファーのままだった。

画像: セス・レイナーが造ったパイピングロックCのスコアカード

セス・レイナーが造ったパイピングロックCのスコアカード

1911年、マクドナルドが設計する予定だったパイピングロックCは、建設予定地の問題からマクドナルドが手を引き、実際の設計はパートナーのセス・レイナーとされる。このコースはごく限られた富裕層のためのカントリークラブで、ゴルフよりもポロ競技で名高い。そのスコアカード(写真/現在のもの)。各ホールに名前が付けられている。

バリシアーGLは
リドーCCをオマージュして造られた

リドーCC(Lido CC、18H/6693Y/P72・1917年/ニューヨーク州ロングビーチ)は、チャールズ・B・マクドナルドとセス・レイナーが設計したコース。

サウサンプトンの海岸に接した敷地は115エーカー(23万坪)、建設費は当時としては破格ともいえる75万ドルで大量の砂が使われた。海岸に接したサンド地帯に造られたマンメイドリンクスの傑作と評価され、各ホールは世界の名ホールをテンプレートしたもので、変化に富み高い戦略性を備えていた。太平洋戦争時に海軍に徴用されて閉鎖、コースは戦後復活されることなく消滅してしまった。非常に残念だ。

バリシアーGL インコース編はこちら

This article is a sponsored article by
''.