連載開始は1983年の「週刊ゴルフダイジェスト」7月6日号

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作者の鈴木ひろし氏(1941~1991)に連載を依頼したのは氏が42歳の時。シャイで、トーナメント取材する時も隠れて木の陰から。尾崎に声をかけられると面はゆかったからだ。笑いの中にもアイロニーの矢は刺さっていた。
“最強の男”が見せたおちゃめな「素顔」
コース上では孤高の王者が、親しみあふれる「ジャンボくん」に。4コマ漫画が描き出し、担当編集者だけが目撃していた、あの頃の賑やかで温かい記憶で振り返る。

漫画タイトル① 「林ごえ」
【漫画①】元々、フェードを武器としていたが、それが定まらない頃。米国遠征してからはドローボールの必要性も悟る。

漫画タイトル② 「宅配便」
【漫画②】宅配便が普及した頃。それまでは主に車で移動していた。当時、日本シリーズは2日間ずつ関西と関東で開催。

漫画タイトル➂ 「軍団規則」
【漫画➂】オフには習志野のジャンボ邸で合宿トレを行っていた。健夫のタラコくちびるに苦情を申し立てられたことも。

漫画タイトル④ 「モーターショー」
【漫画④】尾崎が優勝した副賞のクルマの台数は何台くらいだろう? の発想から生まれた。
縁談への苦情と怒られたOBマーク
「ジャンボくん」が「週刊ゴルフダイジェスト」に初めて掲載されたのは1983年7月6日号だった。当時、尾崎はスランプ(1979~85年)のただ中にいて、まだ復活の兆しが毛筋ほども見えない時期だった。
作者の鈴木ひろし氏と連載開始の挨拶に行った時も、だいぶ前に了承してもらっていたが、その時は“寄るな!”の雰囲気が横溢していて、最後は当方も「好きにやらせてもらいます」的スタートだった。漫画好きな尾崎だったが、照れ隠しだったかも知れない。
1週間の出来事を3本の4コマ漫画でつづる。手前みそながら人気を呼び、週刊は最初このページから見るといった読者も多かった。連載は作者が没する1991年まで続いた。
連載する中で覚えているのは2つのエピソードだ。1つは次男の健夫をピエロ役にしていたが、「このおかげで健夫の縁談がダメになったぞ。どうしてくれるんだ」と、尾崎が当方にネジ込んできたが、尾崎の目は半分笑っていた。
もう1つは「聞き捨て(見捨て)ならん!」と半分マジで怒られたことだ。それは欄外にOB(オザキボール)と称して、野球のホームランの号数よろしく、試合ごとにOB数をナンバーリングしていったことだ。
「俺はね、危険をのみ込んで最良の戦略ルートに挑戦しているんだ。それをちゃかすとは何事だ!」というわけだ。事実、尾崎は3発同じところにOBしたこともある。ドライバーの精度を試していたのだろう。ちょうどスランプを脱する1年前くらいのことである。
その後、ジャンボ尾崎は世界でも例を見ない2度目の全盛期を迎えるのである。その意味であのOBマークは発奮材料になったなと、今頃は天国のゴルフコースでほくそ笑んでいるかも……。
「欄外にOBマークを入れ始めたら、マジに怒られたな(苦笑)」―― 古川特別編集委員

漫画タイトル⑤ 「ブリヂストン阿蘇」
【漫画⑤】週に3本のネタは苦しい時もあり、楽屋落ちをさらすことも。実際尾崎には怒られた。

漫画タイトル⑥ 「OBなしョ」
【漫画⑥】欄外のOB(オザキボール)号数はウケて、スポーツ紙なども真似ていた。

漫画タイトル⑦ 「OBマーク」
【漫画⑦】実際はアイアンに持ち替えたことは一度もない。ドライバーにかける尾崎のプライドだった。
音楽的センスは趣味の域を超えていた

趣味は音楽のほか、書道、刀剣、ワインコレクションにまで及び、晩年は盆栽に打ち込んだ
時代の寵児となった尾崎は千葉・習志野に豪邸を建て、JBLのスピーカーを備えたスタジオまで造り、歌を披露した。その上手さは素人の域を超え、後にレコードまで出した。この歌声を聴きたい人は弟・健夫の結婚披露宴の模様をYouTubeでどうぞ。新婦の女優・坂口良子が感激のあまり涙を流したほどだ。
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月刊ゴルフダイジェスト3月号やMyゴルフダイジェストでは、プロ入り後にジャンボ尾崎に師事し、ジャンボ軍団に加入。レギュラーツアーで通算16勝を挙げた伊澤利光プロが見た“素顔”を、思い出とともに語ってくれた。
Myゴルはこちら後編は有料です
漫画/鈴木ひろし
写真/本誌写真部
文/古川正則(特別編集委員)
月刊ゴルフダイジェスト3月号「~誰も追い付けなかったジャンボ尾崎~素顔の記憶~」より一部抜粋



