英国の理想を追った「鷹之台」の栄光。戦争による消滅と「羊80頭」が歩いた復興の道

鷹之台CC、9番ホール
「日本には英国のようなゴルフ場がない。ぜひ造りたい」
清木一男、後藤半七郎、益子四朗らは大地主の伴田六郎にそう相談を持ちかけた。1930年に匿名組合大和スポーツ協会が設立され、千葉県千葉郡犢橋(こてはし)村横戸字高台の22万坪にゴルフ場の建設が計画された。「鷹之台」は、この高台という地名からとった名称だ。コースを設計したのは、商社である鈴木商店の清木一男。清木は英国駐在時代に各地のコースを訪れ、ゴルフ場設計の知識を豊富に蓄えていた。
1932年に18H・6720Y・P72のコースが完成したが、当時の日本では最も距離のあるゴルフ場でもあった。コース自体は平坦だったが、フェアウェイの幅は十分にとられ、程よく林帯が配置されていたため、雄大な開放感があった。距離の長さだけでなく高い戦略性も備えていたことからたちまち高い評価を得て、36年には早くも「関東プロ(優勝/浅見緑蔵)」が開催され、翌37年には公式戦である「日本プロ(優勝/上堅岩一)」の舞台にも選ばれている。
順調に歴史を刻んできたかに見えたが、戦前からのコースは戦争の波に呑み込まれることになる。クラブハウスには陸軍の鉄道連隊が駐屯し、コースの一部は食糧増産のため農地(芋畑)にされてしまった。結果として、開場から僅か13年で倶楽部は自然消滅の憂き目に遭う。

ゴルフをしていれば一度は耳にしたことがある井上誠一氏
平和が訪れた1952年、旧会員の有志により「社団法人鷹之台CC」が再設立された。しかし、復興に向けた道のりは険しかった。助成金を出した千葉県から農地転用許可が下りず、彼らは「千葉牧場」として申請を通すという奇策で解決を図ったのだ。
井上誠一と和泉一介の設計によって1954年2月に仮開場したものの、建前上「アウトコースは牧場、インコースがゴルフ場」という変則的な状態であった。クラブハウスまでもが「牧舎風」に造られ、フェアウェイには実際に80頭もの緬羊(めんよう)が放し飼いにされていたという。
このユニークな状態を経て、18ホールのゴルフ場として「鷹之台CC」が正式に開場を迎えたのは、同年5月23日のことだった。
重電業界の夢と「牛」が同居した本厚木カンツリークラブ
1952年、千葉県の我孫子GCに「若葉会」というゴルフの会が発足した。この会は、重電6社(三菱電機、東芝、明電舎、富士電機、日立、安川電機)に加え、東京電力、東北電力の業界人による親睦を兼ねた競技会であった。
回を重ねるうちに「重電業界のコースを造ろう」という機運が高まり、1958年7月16日、資本金2500万円で「厚木開発」が設立された。建設候補地は、誘致に熱心だった厚木市長の推しもあり、厚木市尼寺原に決定。ゴルフ場建設に最適といえる平坦な草原であった。
ところが、用地買収がほぼ進んだ段階で、敷地内の中央近くにある農地の転用が神奈川県知事から「不可」とされてしまったのだ。

1958年7月16日に厚木開発が設立され、66年9月に晴れて正式開場となり、コースは18H/6807Y/P72となった
解決策として、彼らは「財団法人酪農電化センター」を設立させた。酪農経営を電化する研究機関として農地を買収し、その周辺にゴルフ場を造るという計画に変更することで、県の認可を得たのである。
コース名は「本厚木CC」。我孫子、相模、霞ヶ関といった名門を目標に据え、赤星四郎が設計を担当した。1961年11月に造成が開始され、翌62年2月に芝張りが行われた。そして11月3日に無事開場の日を迎えたが、アウトの1、3、6番ホールを除く「15ホールでの変則仮オープン」という状態であった。敷地内には実際に牧牛が同居しており、非常に牧歌的な趣があったものの、ラウンドするゴルファーからの評価はどうしても限定的にならざるを得なかった。
暫くの間、酪農とゴルフ場が同居する状態で経営が続けられていたが、酪農電化センターが宮城県の蔵王遠刈田に移転したことでついに農地問題がクリアになる。そこから1年6カ月後の1966年9月、晴れて18ホールが揃っての「正式開場」となり、18H・6807Y・P72の本格的なコースが完成したのである。
文・写真/吉川丈雄(特別編集委員)
1970年代からアジア、欧州、北米などのコースを取材。チョイス誌編集長も務めたコースやゴルフの歴史のスペシャリスト。現在、日本ゴルフコース設計者協会名誉協力会員としても活動中




